ドクタードリトルになりたかった私
巷の、そ〜なんだ〜・・・な話
ロスケがいよいよウクライナ侵攻を認めた。 ポン政府の制裁に対して、入国禁止を求めてきた。
ど〜せバレるのだから、早めに制裁の仕返ししとけ・・・というバカバカしくも判りやすい現象だ。
チャンもロスケもガキの喧嘩に徹する姿勢となった今、戦争は国家首長の気分を反映するツールとなった。
ホンっとにヤバイ・・・ たいがい首長なんてのはジジイなので、せつな的になりがち。
所詮オスは、喧嘩して相手を打倒したいに決まっているから、本質的に戦争したくなるのは仕方ない。
クソジジイどもに世界をいじられるのは、まったくもって不本意だが、そういうヤツらが選ばれるのが
人類の終末現象のひとつなのかもしれない。 やっぱり摂理の仕業だろう。
それどころか、ユ〜チョ〜な人類のイザコザより先に気象が激変しはじめた。
ニンゲンは増えすぎて、摂理のいろんな触手が伸びてきて、さまざまな事象が起こるのだ。
ニンゲンどうしの共倒れ、気象激化による生物の無差別な淘汰、治療が困難なエボラ・・・
なのに、メリケンは一発ぶって見せた。
エボラから回復・・・ナゼうそぶくのか理解に苦しむが、あの芝居にアフリカは食いつくのだ。
メリケン人は、売り込みの手段を選ばない恥ずかしさが、世界中に知れた。
一方で、まともな知識やメディアのないアフリカでは、そうした迷信が広がりやすい。
メリケンの心理戦は、なかなかウマイコト仕組まれている。
もともとアポロが月面に到達していなかったこと以前から、メリケンはニンゲンの意図と違う部分が感じられる。
自作自演の911に至っては、もはや完全に宇宙から俯瞰したモノの見方で実行された・・・と私は感じている。
他方、我らは宇宙人のウンコに含まれていた、恥ずかしい大腸菌から進化した可能性が大ではないか・・・?
ウンコは大だけに・・・という意味ではない。
しかしそれなら、宇宙人のウンコ生命の発生があるのなら、生命発生のナゾはどう解消するのだ?という、
実に小市民な発想にいたる方もいらっしゃるかもしれない。
ウンコから進化したと思いたくない気持ちはわかるが、そう考えるほうがシンプルで自然である。
最初の生命の発生についても、私たちの知識や認識の浅さに問題がありそうだ。
宇宙は広い。 我らが発想するような、地球環境とは違う、とてもカンタンな環境があるかもしれないのだ。
あるいは地球人からすれば、非科学に感じられる事柄によって、意図的に発生しているかもしれない。
そもそも土木業界で埋設管を探すのにL字に曲げた針金2本でダウジングしていたが、科学で証明できない。
我らの科学は、せいぜい数千年レベルであり、まだまだ浅い。 科学にプライドを感じても、無駄かもしれない。
私たちは、ただ単に自尊心の高いウンコ進化生物の可能性大であり、
もしそれが近い将来、ウチュージンのカミングアウトでバレた際、いったい我ら人類は、
どのようにチッポケなプライドを保つのだろうか。
「ウンコ虫だっていいじゃない・・・にんげんだもの(みつを)」で、サラリ済ませることができるだろうか・・・
ウンコジンのくせに、ウンコ元に対して、無駄に反旗を翻しそうなのがオソロシイわ。(笑)
そもそもビッグバンで生まれたとされる宇宙だが、
その外側に同じような由来の宇宙が散在していると考えるほうが、より自然ではないか?
私たちの信じている「この世」はフラクタル構造になっている。 大小さまざまな現象は、構造が類似している。
原子構造、地球と月とか惑星と衛星、太陽系、銀河系、銀河団、大銀河団・・・宇宙・・・
その宇宙と同じ構造で、さらに宇宙がいくつもある・・・と考えるほうが、実に自然に感じられる。
とかく、この世とこの宇宙を同一視しかできない私たちニンゲン。 そもそも時間の進み方も一定でない宇宙で
そうした感覚を持つこと自体が勘違いをポンポン産んでいる。
私たちが見ている宇宙は、何億年も前の光であり、その構造自体、もう存在していないかもしれないのだ。
私たちは、かなり古い宇宙を眺めて、最新技術と知識だ・・・などと迷信しているのだから、まだまだ浅い。
大体からして、150億年より前には字空間が存在していなかった・・・なんて、それこそ神代の話ではないか。
それが先端科学などと・・・よ〜ゆ〜わ・・・と感じるのは私だけだろうか??? 科学経信者が多すぎる。
さて
私はウツの症状を抱え島にやってきたとき、動物写真家になりたかったのではなく、動物と馴れ合いたかった。
転校した中学のとき、アレコレあってイジメのような事態に陥ってから、ニンゲンと馴れ合うのが苦手である。
今風なマエムキ表現をムリに気取れば、ニンゲンと馴れ合わない勇気を得た・・・とでも言えばよかろうか。
ニンゲンには本音の前に頑丈な建て前が存在するから、メンドクサくなっていたからだ。
無論、そうでない友もいてくれたものの、私はどうも丸裸になって付き合うことができていない。
んま゛〜丸裸でなければ親友ではない・・・という潔癖である必要もなかろうが。
最近
私が変わり始めていると感じる原因は、島では建て前が通用しない・・・ということだろう。
お陰で私の無駄な防御本能=引きこもる性質は、いささか和らいでいるようだ。
過去から開放されつつあるためか、なお動物と馴染みたい気持ちが加速しているように感じられるこのごろ。
以前、お子さま向けの演劇に、ナマ口笛で出演させてもらって以来、上達が続いている鳴きマネ。
バカの一つ覚えのように、日々使えば使うほど・・・上達するのは当然のことだ。
猫八さんとこのお家芸はウグイスである。 ちなみにあれほどウグイスの声は高くなく、リアリティは薄い。
とはいえ、私もウグイスのマネは難しく、ホーホケキョのうち、ホーホの低いところから一気にケキョを吹けない。
ただし、谷渡りのケキョケキョケキヨキョケキヨはできる。
それにおそらく猫八一問にはできない、カッコウやホトトギスは私にとっては楽勝だ。
ついでにツッコミ入れとくと、南西諸島ではヤギはフツーの家畜だから声は馴染み深い。
猫八一門のヤギは、やたらダラダラして歯切れが悪く、せいぜい50点である。
さて、堂々と猫八一門をイジルのにはワケがある。 私は真似ればよいわけでなく、撮影と記録を主眼とする。
誰も知らないシマウマの声で客を煙に巻いて拍手をもらうようなことはできず、撮影できないのである。
ちなみに、私の口笛の特長は・・・昔、フクロウっぽい音を出すのに、両手を包むようにして親指の間を吹く
アノの音を、フツーに口笛で再現できることだ。 つまり3オクターブちょい出る。
だから、EOS1Dのような大型の一眼レフでなく、フツーの一眼レフなら、口の周りの風圧が阻害されないから
前方に野鳥を呼び寄せて撮影できる・・・という寸法だ。
一方で、やはりプロの猫八一門の切れのイイ指笛には適わない部分は多大だ。
私が口笛の音を区切るのは、クの発音のときに使う喉の閉鎖と、ラッパでも用いる腹筋の振動である。
フツーに口笛を吹くと、後者の腹筋のみで吹くことになるから、アタック音が出せない。
それで私がたまたまマスターしたのがキとかクの発音のまま吹くテクニックであった。
おそらく、青の読者諸氏は、実に詳細かつ丁寧なマエフリは、全力でど〜でもい〜と感じているだろう。(涙)
けれども、鳴きマネで金儲けする猫八一門と、鳴きマネが道具である私とは本質が違う。
結果として、娯楽に飢えているジジババの慰みごとに徹するのであれば、必ずしも似ていなくてもいい。
写真の色再現に用いる用語で、記憶色というのがあるが・・・思い出の中のイメージならOKという意味だ。
ジジババの思い出を刺激して感動を呼び起こすのには、必ずしも正確な表現が必要なわけではない。
一方、私のは・・・鳥たちに認めてもらえなけれ意味がないのである。
さて
私には、動物写真家としてのコンセプトが在る。 ニンゲンと動物との距離を知るために記録すること、だ。
なので、エサを仕掛けて、怪しげな迷彩のミニテントで軽くサウナ感覚を味わう待ち伏せなどもしないし、
録音した音声を流してヤラセすることもない。
ともかくニンゲンの姿をマルッと見せるとか、目立たないと思われる衣服の色合い・・・たとえば黒っぽい、
はたまた下だけ白いとか、そういう化け方はするが、基本的にはニンゲンそのまま。
南国において、クソ暑いギリースーツなどを羽織るなど、正気の沙汰ではないし。 何より恥ずかしいし。
時には、障害物に沿って隠れ、コソコソしながら撮影したりもする。
運動公園でやることが多いので、かなり恥ずかしい。
いつぞやは、ノドアカツグミを追跡しながら、全力でコソコソしつつ運動公園を小走りしていたいたら、
教育長に見つかって怪訝な視線を感じたこともあったっけ。
一応、そのあと教育長を訪ねて説明責任は果たしておいた。 大人の対応も欠かしてはならない。(涙)
ハナから動物にわからないような道具や仕掛けで挑むのでなく、体一つでどこまで距離を詰められるかを
知ることを主眼としているのだ。
状況判断と知恵で距離を詰めることは、動物との距離を測る上で大事なこと。
で・・・根本的に発想を転換したのが、鳴きマネだ。
アッチから寄ってくるような・・・ドクタードリトルなアレを追求してきたのであった。
子供のころからの夢だったんだよね〜
最初(さいしょ)にマスターしたのが、リュウキュウコノハズクだ。
道具は使っていない・・・といえばウソになるかもしれない。
私をはさんで前後に電線のある場所に陣取り、オスが前方から鳴きマネする私に威嚇しにきて、後ろの電線へ。
そしてまた・・・を繰り返して撮影したカット。
春先から夏場にかけ、夜な夜な我が家のまわりをパトロールしていて、そりゃもう眠れない。
どうぜ眠れないのなら、夜間撮影にもつきあってもらおう・・・と開き直ったわけだ。
内地のコノハズクはブッポッソーと高い声だが、こちらのはフクロウっぽくコホッコホッと低い声で鳴く。
ちなみに大きさは350ccのビール缶よりやや細いボリューム感くらいしかないわりに、
横浜にもいる中型のフクロウ、アオバズクよりやや高めの声で鳴くが、通常の口笛では出せぬ低音だ。
問題は、低音だけではなかった。
コホッの前に、小さくコッと鳴くのだ。 そんなこと・・・と思われたアンタ、やってみ。(笑)
そもそもコホッすら鳴けず、ふぬけたホホッになる。
コッコホッと鳴くためにはコッコッコッと低音を吹かねば、通常のホッと重ねられないのだ。
で・・・そもそもコッコッコッなどと吹けるはずもないし、ピンクパンサーのメロディーをオクターブ上げずに
吹くことすら難しい。
それはもう、血のにじむような夜の連続だった・・・(笑)
昨年の庭先カット。 マスターしてしまえば、このように眼前で鳴くので、コンデジ+ストロボでも撮れる。
このコンデジはかなり古い、キヤノンPro1にサンパックのストロボをくっつけた、お料理撮影セットを使用。
島でもっとも馴染み深い野鳥の声といえば、内地でもメジャーで複雑なイソヒヨドリの声だ。
スターウォーズのR2−D2のモトネタであるらしいアレだが、もうひとつがアカショウビンだ。
無謀にも、アカショウビンに挑んだことで、私の口笛人生が変わってしまった。
アカショウビンは、キョロロロロロ〜であり、おおよそ口笛で再現する類の声質ではなかった。
んが・・・アカショウビンは、目がデカくてかわいいコノハズクの裏返しに、派手でクチバシがデカくて、
チョコボールのキョロちゃんのモトネタで、内地のヒグラシのセミ時雨に匹敵する
南国の夏の、郷愁サウンドで鳴くのである。
何度も吹くうち、吹き方も自然と工夫が加わり進化していった。
10日ほど前、すっかりだまされ・・・ついつい釣られて鳴いてしまったリュウキュウアカショウビン。
ケキョ!ケキョ!ケキョ!ケキョ!・・・ギョキケルルルル・・・コッカルルル・・・コッカルルル・・・・と吹く。
まわりに仲間がいる!と、興奮して飛び回る様を再現する声を演じてみたところ、当たった。
鳴きマネは、スピーカーから音源を再生していては得られぬ実感がある。
300mほど飛んで回り込んでやってきて、前方の路上わきの木にとまったアカショウビン。
このあと私が突っ立ったまま鳴きマネすると、向き直った。
マグレではないのである。 ただし、ひっかかる個体と、全くそうでない個体がいる。
それは果たして、縄張りの問題なのか、あるいはペアになれなかったのかは、私は後者だと感じている。
無論それは、定かではない。
このごろ都会(とかい)では・・・
老後に600mmレンズとハイエンド一眼レフを求めてカワセミを撮るのが流行っているらしい。
それが加熱しすぎると、コイツになる向きもあるらしい。 大きさはやや大きくムヒヨドリくらいだ。
人生をあきらめた向きは、いつまでもカワセミにしがみつく・・・とか?(笑)
いずれにせよ、自分のしょぼしょぼ人生の達成感を、カワセミ撮影に求めるか、山登りに求めるのか・・・
わかりやすすぎて、笑えぬよ団塊の世代ってヤツは。
全国の団塊世代共通価値観の意味なんて、人生にはド〜デモイ〜のに、自分の価値観を持ちたまえよ。
競うフリして、全然たる寂しがり屋すぎて・・・困ったジジババ世代である。
とまれ
カワセミは単純な待ち伏せで撮影できるが、アカショウビンは地上のエサを捕獲するため神出鬼没。
エサも使わず、寄せて撮影できてしまうのは、かなりのアドバンテージがあるわけだ。
むしろ、ドクタードリトル・レベル?に近い。
ちなみに先の2カットは、別の用事で北部の山際を訪れたとき、退屈しのぎに召喚?したものだ。
真昼はあまり反応が悪いが、朝夕ならフツーに楽勝である。
だからといって、アカショウビンの声はそうそうカンタンにマネできる声でもない。
こちらは、渡ってきて巣作りしているころの鳴き交わし akamane-140522.mp3 である。
最初は1羽を寄せるつもりだったが、3羽ほどになってしまった。
縄張り争いと、パートナー探しが激しい時節なので、かなり反応はいい。
問題はリアルさでなく音程やリズム感、それに何種か鳴くことで、エア集合感?を出すこともキーポイントだ。
猫八一門ほどの上手さはないものの、答えを本物で検算するところが商売の芸との違いだ。
お情けで拍手して盛られえるような甘さは、一切存在していない。
口笛に反応しやすい鳥と、そうでない鳥がいる。 通常、繁殖期以外は反応しない場合がほとんどだ。
と・・・信じていたところ、そうでもないらしい。
いささか、面白情報を述べておこう。
他人の空似?を重視する向きもあるのだ。 つまり、キライな声を真似られたときに寄ってくる鳥もいる。
サンコウチョウは、その代表か。 きちんとホレヒョィ〜ホイホイと真似するより、アカショウビンで寄ってくる。
サンコウチョウは、ヒロ・ホレ・フィ〜ホイホイホイと鳴くから、月日星ホイホイホイで三光鳥とよばれるが、
こちらのサンコウチョウはヒョ〜ホイホイ・ヒョ〜ホイホイと鳴くことが多く、型外れ?である。
DVDホイホイホイ?と鳴き出すのは巣立ちの後、7月の初旬以降である。
たいそう意気地の座った鳥で、カラスも追い散らすほどだが、やはりヒヨドリくらいの大きさだ。
初夏に、めったに見られないのが不思議で仕方ない地元の野鳥「リュウキュウキビタキ」を吹いていたら、
ヒツコク出てきていた。 写真はヘルパーの若オスのようだが、尾の長い成鳥のオスも寄ってきた。
アナログ電子的な鈴の音?の如き・・・キテレツなリュウキュウキビタキの声を確認するならコチラへ。
口笛はアカショウビンと同じ要領なので、さほど難しくないから反応はあるのだが、決定打に欠いている。
身近な小鳥も反応することがわかった。
メジロよりもボリューム感の小さいセッカが、アカショウビンの口笛を繰り返したところ反応したし、
知らぬうちにメジロも超接近してきており、モビングしようとしていたようだ。
アカショウビンは、在来の小鳥たちにとって、かなり意地悪な存在なのだろう。
セッカはあまりニンゲンを怖がらない小鳥だが、逃げないことはあっても、寄ってくることはない気がする。
口笛で真似しようとすれば、音程や声質にも当然敏感になっていくのを感じる。
ひょっとすると、CDやMP3など楽曲をひたすら好んで聴くのより、自分のバンドでカバー演奏しようとする方が、
数百倍よく聴く・・・のではなかろうか。 図鑑や写真を眺めるのと、スケッチするのとの違い・・・と同様に。
ハクセキレイとセグロセキレイの声もわりと簡単に聞きわけられるようになったし、
いささか間違いやすい、アカアシシギとムナグロの声も間違えなくなった。
なんていうか・・・声質というか、波形で聞こえてくるというか・・・
このごろ
チャレンジしているのは、水鳥・・・といっていいのか、シギ・チドリである。
そのうち、もっともイノーに多いのがキアシシギだ。 つぎに真似やすいアオアシシギもこのごろチラホラ。
キアシシギはキュイキュイ、アオアシシギはキョーキョーキョーである。
水鳥は声質についてビミョ〜にウルサイようだ・・・と考えていたが、タイミングだということがわかってきた。
アカアシシギ、ムナグロ、ソリハシシギ、メダイチドリもチャレンジ中だが、なかなか似ない。
キョヒーン、ケフィヨ、ケキョ、ピルル・・・かなりハードル高い。 そうだな・・・実測82センチmくらいかな?
バターンとハナから倒すか、グキッと足に当たるのを覚悟で走り抜けるか・・・・悩ましい高さ。
キアシシギは、そこそこ扱えるようになってきた。
逃げずにジロジロ眺めるのが増えたのだ。 どういうわけか、アオアシシギは少なく、キアシシギは多い。
アオアシシギは魚食らしいから、カニだらけのイノーは苦手か??? けど水溜りには小魚多めだけれど。
それはそうと、日常にいるキアシシギは、修練にはもってこい。
次いで、鳴き声というより泣き声が通るアオアシシギも、反応がいいので修練にはもってこい。
旅を続けるシギ、チドリのうち、よほど心細いのか、あるいは渡りの同胞を求めるのか鳴きながら舞うのがいる。
仲間のところで休むでもなく、ただ鳴いてまわるシギへ鳴いてみると、不思議とすぐ反応する・・・
そこ個性が、気象変動とか災害の対応の違いを生むのだろう。
最大最後の問題というか、問題にもならぬ鳥たちもいる。
鳴かぬなら・・・眺めるだけの・・・コイツラを。(笑)
このごろ、あまり黙って観察しないから、こういうヤツラがいてくれると助かる。
ともあれ
ずっと都会に住んでいたら・・・わからぬことは山のようにあった。
都会生活をナメている意味ではない。
反面
鳴きマネが野鳥に通用していて、先の撮影を可能としている事実を、にわかに信じることは難しかろう。
ならば・・・もう来年のことになるが・・・どこかの島で夏休をみ企画して、アカショウビンを目指すといい。
意外にも、カワセミを経てリュウキュウアカショウビンでもいいから、撮影したいと考える向きは多い。
だが、それを確実にかなえるのは、おそらく全うなガイドにはムリだ。
他方で、私にはできる・・・と主張することに、違和感も感じるこのごろ。
確実ではないにしろ、おそらくほとんどの確率で実現が可能なものの・・・それを言えばプロのガイドを
否定してしまうことになる。 ガイドにはガイドの仕事があるから、あんまりそうした主張も大人気ない。
小さな社会において私の小さな主張が、様々な意味で解釈されて広がることは
私にとって、とてもキケンなことだ。 私はまだまだ、島ではソレほど信頼されていないと思う。
だからといって、私が鳴きマネをやめることは、一切(いっさい)ないのであるが・・・