コトバの壁

(ほとんど No Image)

 


 

理解したくもない話題

 

バカは死ななきゃ治らないという。 山岳遭難でだいぶ死んで治ったみたいだ。

冒険に行くのに覚悟が無い。 まったく理解できぬ・・・むしろ自力で生き延びてナンボだろうに。

つまらぬ救助の懇願で、仕方なく救助に向かった者が死ぬようなら、私はその一族を許すことができない。

 

ニンゲンが無駄に増えれば、バカも比例して増加する。 したがって巻き込まれて死ぬニンゲンが増え、

天敵のいないニンゲンの摂理が果たされることがわかっていても・・・やはりバカは許し難く、無駄に腹が立つ。 

 

私も寄る年なみに頭が硬くなって、看過でき辛く、文句一つも言いたくなるオッサン・・・ということか。

 

膨大な国家予算が注がれている理研コンツェルン、インチキ論文露呈に歯止めをかけるためスタップを切った。

おそらく、もう手遅れだろう。 しばらく、科学は揺れそうだ。 どうやっても、握りつぶせないかもしれない。

 

パクゥリ半島は、グダグダ社会の根底が露呈して、キムチの民が怒り始めた。

これが・・・成熟した社会を意味する事態なのだろうか。 ポン国内も多かれ少なかれ、構図は同じだろう。

これから原子力でエライコトが起こる。

 


 

学校教育の問題か、本人の無知や怠惰に対する誇りかしらぬが、災害情報すら正確に伝わらない。

ポン語のあり方に問題があるのだろうか。

マレー語やインドネシア語には過去現在未来がないというが、ポン語は比較的、繊細に物事を伝えられると思う。

 

コトバは、現象を伝える必要がなければ生まれないことすら、ポン人にはわかり辛いほどに

ポン語は語彙が多彩で、ビミョ〜に違う趣きなどを重視して至りもする。

反面、英語のように一つが複数にコダワルことはなく、多いか少ないかが問題で、相対を重視する。

普通か普通でない、自分のより大きい、小さいとか。

 

語彙の多さは、当然必要から生まれる。

たとえば、車が無かった時代はワダチというコトバは必要なかったように、必要が無いから表現が無い。

東南アジアやアフリカは、生死に関わること意外は、さして正確な表現をせず、悩まない暮らしをしているから

表現が無いのだ。 ぬかるむ、という言葉があるが動詞である。

私が育った地域の山口弁は何でも形容詞にする習慣があった。

ぬかるんで歩き辛い状態をジルイ、真っ直ぐなことをマッスグイ・・・などと表現していた。

 

生活が豊かでなければ表現にも余裕が無かったり、あるいは大家族の慣習だけで生活でき、

シンプルに生存生活のみを営むぶんには、さしたる正確さや、細かな表現は必要ない。

必要以上に蓄財し、他に競り勝つ必要がある場合に、物事は発達する。

無駄に競争しない、焦らない民族は貧富と関係なく語彙が少ない。

 

そのあたりは、シマンチュで農家を営むオッサンが、ボキャ貧で上手に女性と話せないことから容易に想像できる。

島の農家のオッサンのコミュニケーション能力は極めて低く、奥様が子育てを相談するのも困難なほど。

それくらい結婚習慣が普及した島・・・ともいえる。 男性は生活力が無く、奥さんをもらわないと飯がこさえられぬ。

勢いだけでも奥さんがもらえる島の男の意気地には、私も学ぶべきポイントがあるに違いない。

ただ、子育て終了と共に離別する夫婦も多い。

もともと大家族だからか、男性はコミュニケーションが苦手なわりに寂しがり屋で、離婚しても再婚したい。

何度も再婚しているのを見かけたりするが、ご夫婦の風体を見るにつけ・・・ほんとに誰でもいいのかも、と感じる。

 

閑話休題

 

おおむね

ボキャ貧=思考の単純さであるから、コトバの壁は思考力と直結している、と言えなくもない。

 

そうしたボキャ貧の親たちが、無駄に競い合って背伸びした結果が、ビミョ〜な当て字だらけの名である。

望愛≒みらい、未玲亜≒みりあ、青利香≒せりか・・・周囲に大反対された男児の名は、極≒ごく。

そもそも、当て字にもなってないのも多くて、町の広報誌でもふりがな無しでは読めない名の新生児が揃う。

親の頭の弱さは、子に伝染する・・・のは、あながちマチガイではないかも? これらは真顔でつけた名だ。

一生、親の脳力をひきずって生きることになった子ら。

読めない文字が、意味をなしていないことが理解できていない親たち。 島の哀しい学力の現実がある。

 

義務教育など、休む以外は落第は無いから、高校を出ていない人のなかには、言葉がある程度通じるだけで、

要る、腹減った、カネ、やる、タバコ、寝る、死ね・・・くらいの単語で生活している連中が山ほどいるようだ。

そういう理解力がない向きに、コトバはあまり意味をもっていまい。

 

ラジオで聴いたのは、気象警報、注意報の重さや、避難指示と避難勧告の重さが逆転する現象だった。

コトバを理解しない人にとって、コトバの重さ=長さ、語感の強さであるようだ。

一応会話が成立するようになる、4、5歳レベルの認識だ。

 

ケーホーよりチューイホー、シジよりカンコクの方が長いから、ただソレだけのこと。

バカにもホドガアルがそれがポン人の現実。 学校教育が充実しているわりには、意外に頭が悪い。

食ってセックスできれば、別に学習など必要ない・・・基本的にサルにもどりたがる。

避難勧告より避難指示を重くするには、避難ドドド指示にするとか、ガンガン避難指示、

あるいはボキャ貧のために避難勧告を流用し、重大避難勧告などとすればよかろう。

 

所詮、コトバがわからない人を、防災情報で救うことはできまい。

コトバがコミュニケーションの原点だが、識字については別で、話し言葉だけで生活するのと

新聞や書籍など文字を常習している生活者では、意味の通じ方が異なる。

私とて、「役不足」とか、「憮然」とする」は誤解していたことがあった。

でもそれは、装飾コトバであり重要ではない。

コミュニケーションは、多様でなくても、意図を正確に伝えたいことは、誰も同じ。

ボキャ貧だから悪いことはなく、正確ならいいが、おおよそボキャ貧は正確さもいとわぬ性格が多い。

感情的になりがちで、バカとかアホとか罵倒したり、自分の感情を念晴らしする語彙ばかり多くなる。

 

天変地異を予測しろと言っておいて、言葉がわからんと怒る。

死にたくなければ自分で身を守るのが基本だが、避難しろといわれなければ動かないし、

おそらくソ〜ユ〜人種は、どのような指示を出しても逃げない。 誰かを巻き込んで死ぬ手合いだ。

 

いろんな自治体には、災害ハザードマップがアレコレ存在する。

オモシロいことに、ことごとくアラユル自治体のマップも番号と記号にあふれており、観光マップより難解だ。

実用性を感じられるマップが無いのだ。 防災に記号を使ってどうするのだ?

それでなくてもボキャ貧で、信号すら守りそうにない連中に、新たな記号が馴染むワケがない。

 

さらに、避難所などの番号や記号は大雑把に配置されており、場所が漠然としかわからない。

番号は白丸と黒丸では意味が異なり、いちいち一覧表を調べて名前を知る必要がある・・・。

小学生が冒険遊びで使うマップのようなイメージに仕上がっている。

ジジババや頭の悪い連中には理解できる図ではない。 そういう意味では、正しい地図かもしれない。

頭脳弱者を明確に切り捨てている。

 

世の中には、公的にも様々な壁をこさえてしまっている現実もあるわけだ。

 

このごろ、私の中にディスレクシアという語彙が増えた。

 

以前から記しているが、私は書けるが読めない。 いや・・・読めないというのは正確でない。

読むのが大変遅いのだ。 こうしてタイプしているのも、頭の中でコトバを発音していて、

話すスピードより速くタイプできない。 読むのも同様で、声をださないで発音して認識している。

これも一種のディスレクシアなのかな?と感じている。

練習しようとしたが、ナナメ読みは無理だった。 文字がチラチラして、読んでイメージとして入ってくるが、

次の文字を見ると前の文字列を忘れていき、内容が残らない。

 

サラリーマン時代、会議資料などで、ヘタクソな文章をダラダラ並べた訴求資料などを、

一瞬で読み下す技術者や営業が、とてもうらやましかった。

資料を読み合わせたりするときも、ついていくのがやっとだった。

 

小学のころから、学力はさほど低くないのに、国語の精読に時間がかかってコンプレックスだった。

読書はキライではないが、かなり疲労を伴った。

子供の集中力など知れているから、面白いが読むという労働に飽きがきて、一冊読むのは苦痛だ。

 

それでも、右脳のイメージ認識が助けてくれたのか、私の学力はさほど低くならなかった。

英語が大の苦手だったのは、文字認識するために、脳内で読み上げるのが難しかったからだろう。

ただ、なんとなく文章のイメージで、この会話の応えはコレだろう・・・のような問題は、なんとなく解けた。

とくに共通一次の聞き取りのようなのはわりとOK。 正確に答えなければならない慣用句などはサッパリだ。

英語の場合、私の脳内は発音と単語があまりリンクしていないから、ディスレクシアっぽいところが認識できる。

 

右脳が認識しやすいのか、先生がよかったのか、私は高校のベクトルが得意だった。 今は忘れたが・・・

化学は文字列というより、文字列が物質の記号だから、組み合わせはイメージしやすかった。

今にして思えば、分子構造をキチンと描ければ、もっと楽だったろう。

 

右脳のパワーの源は、イラストをチマチマ描くと共に、左手で箸を持つことも奏功したかもしれない。

関係ないが、今となっては腱鞘炎で大半の作業を左化している。 釣りも左投げ右巻きだ。

 

脳内で起こる機能の高低、有無はアナログ構造なのだから、様々な症状や段階があろう。

 

このごろ私の脳内はかなりヤバイと感じることがある。 ディスレクシアどころか、情動が体の動作に出る。

好ましいか好ましくないかは関係なく、感動したり緊張すると全身が細かく痙攣するような感じだ。

野鳥をビデオ撮影していて、珍しいシーンを目の当たりにすると、カクカクカクと体が震え、必ず台無しになる。

商売としては、とても困る現象だ。

だからなるべくファインダーを漠然と視るようにしているが、ビデオ撮影はマニュアルフォーカスで、

格闘技のようにボンヤリ眺めていては、すぐにピントが外れてしまう。

 

たとえば、ペットボトルどうしの移しかえで、注ぎ始めの狙いをつけるとき、手がカタカタ震えて定まらない。

ムリヤリ両手で固定して定め、注ぎ始めれば、すぐ震えは止まる。

最初はアル中の現象か?と思っていたが、どうも違う。 このごろアルコールの効きが悪い気がするし。

 

ちょっとしたことでも緊張したり、嫌悪感からドモッたり、吐き気や下痢になってしまう。

以前は得意だった、平行して複数の事柄を脳内で処理する・・・なんてことは、とても難しくなった。

寄る歳並み・・・というだけでは説明できないことが増えた。

精神が弱体化していることは明らかだが、なぜそれが進行するのか・・・私には理解できない。

脳が物理的に壊れているのか、あるいはソフトウェアの精神だけが変更されているのか。

しかしながら、情動は物質であるらしいから、やはりハード的にも狂いが生じているのだろう。

 

高齢化が進み、脳力は低下し、語彙の多少で格差が生まれやすくなっている。 無論、体力的にもだ。

この青が社会に影響を及ぼしたりすることは無いし、社会を論ずる意味もないが・・・島の現実を眺めると、

それでなくてもコトバの壁が大きく、概念自体が単純な社会では、脳の使い方が少ないから老化も早い。

わき道から車やバイクで出るとき、斜線に出てから確認するならまだいい方で、全く確認無しに飛び出し、

向こう見ずなのに逆の、自分の行きたい向こうしか見ていないジジババが日常的になっている。

 

都会では顕在化は遠かろう。 しかし島は都会と圧倒的に違うことがある。 信号の数だ。

町内には5ヶ所しかない。 言葉も道理も通じ難い、思うがままに徘徊する老人があふれている。

電動カートでは移動し辛いので、軽四で徘徊する。 だいたい、時速20キロ走行。 方向指示器は無使用。

右左折時には、大きく逆にハンドルを切り、ハンドルを持ち替えることをしないから、車線をはみ出し大まわり。

私は、シマンチュ特製アウトインアウト走法と名付けた。

特に小回りが必要な左折が危険で、反対に振ったハズなのだが、平然と右車線へ出てくる。

ハンドルは握ったまま離さないので、最大でも左右90度までしかハンドルを切られない。

 

そういう社会の様子は、女性の自動車電話情況にも現れているように感じる。

島の女性は25歳くらいまでに結婚する。 停車して電話しているのは、小学校低学年くらいまでの女子。

思春期以来の繊細な会話を習慣にしているが・・・子育てが多忙になり、会話もおろそかに済ます30代からは、

低速走行しながら、会話に半分、運転半分のマルチタスクできるようになる。

ちなみに男性はほとんど全力走行しっぱなしで違法運転するのが常識なので、会話がいかに雑かわかる。

 

ハンドルは切らない、ウィンカーは使わない、ケータイし放題、しかも向こう見ず。

これで事故が起こらないのが不思議だ・・・と思うだろう。 私もそう思う。

現実には多発していて、多発しすぎていてナーナーになっているだけ。

所得の低い天城町は、島内きっての無修理車両の多さ、凹みや摩れのない車両が事故の証拠を物語る。

オーバーな話ではない。 正直8割以上の車が、なんらかの変形をしている。

向こう見ずで後ろ見ずでもあり、意外なところに設置?された縁石やら庭石で後輪の周辺がボコボコになる。

意外なことに、ボンネットの前方がボコッと凹んでいる車もチラホラ。 故意にぶつけるしか、やりようがない。

 

漁や農業を営み、最低限のコトバで生活する人等と、やたらくっちゃべって、雑学主張するリーマンら。

どっちがいいとかでなく、同じポン人だから、緊急性のある共通言語くらい持っていたいものだ。

110番や119番、118番みたいなシンプルさで。

 

お客様はカミサマ・・・貧乏人は客にもなれないのだから違うはずだが、皆同じノリで被害者面するポン人。

これから、いかなるコトバの壁が社会や災害を醜悪にするか・・・ビミョ〜である。

自分の不理解を省みず、無駄に自治体や国を相手取り、身内の命を換金したい国民が増えるだろう。

税金やら、国の借金やらが増え、自分らの首が絞まっていく。

 

しかも

原発問題は深刻化し、10年後には始まってしまっている廃炉多発には増税+借金のうえ、福祉削減である。

っていうか・・・廃炉は計画的にしておかないと、フクシマのゴタゴタが40年は続くから人材が足りてない。

 

いろいろなコトを先送りしえている我らの社会は、官に頼り切った体質だから、コトバひとつで崩壊しやすい。 

失言で去った高官、責任者は珍しくなくなった。 おそらく理研もポロッともらして、そ〜なる口だろう。

 

脳の弱った高齢社会で、コトバの果たす役割はドチラへ向かうのか・・・気になっている。

改善でないが、少なくとも「信じる」とか「勇気」「遺憾」「もったいない」とか使っておけば安泰なのかもしれない。

「絆」はヤタラ軽々しく多用されてしまったから飽きられ、効き目が薄れている。

コトバが、意味合いの大事さごと、すぐ流行り廃れるのがポン人の恐いところ。


ではまた