私史上四番目の美味しい魚に、思いだすこと

 


愉快、久々に愉快で、はじめて泣きながら笑ったアニメを視た。

GYAOで配信中の宇宙兄弟。 視ている中年以降の方もいるだろう。

なんかこう・・・昭和晩年だ。 人情と技術とが同居してナイマゼになりながらやってきた世代。

昭和初期のオヤジの姿と、優しさという名の父の威厳失墜とか体罰の無い子育てとか、

実は情けない社会になりつつあるころの話しに見てとれる。 厳しさこそ、生物を強くするのに。

 

ま゛〜そんなことを現代に唱えても、無駄だろう。

 

ともあれ、無駄に集まったような集団が国家を名乗るぶんには、実力とは無縁の資源とか、

武力とか、国力を表すの数字とか・・・あるいは元々意味の無い高い存在、あるいはカミをこさえ、

それらを信じることでまとまろう、まとまれば、まとまらないヤツはオカシイ!という世論をこさえ、

一応の共通意思をもったような国境をこさえてきた。

 

日本人が、経済に弱くなった理由は簡単だ。 それをこのアニメで再認識できた。

結局、判断するのは数値でもなんでもない、人の気持ちであると語っている。

最新の宇宙開発においても、極限の人間関係こそ必要となる尖った世界。

カミとやらしか信じるもののない連中か・・・あるいはカミなど必要とせず人情とか絆を持つ民族。

あらためてオモシロイねぇ〜日本人、と思った。

 

そうそう

本当に悲しくなりながら、心底笑ったのははじめてだった。

主人公が、面接の席で椅子のネジを気にするシーンである。

わざと緩めてあって、それを仕掛けた面接者の一人が主人公が素手で締めたのを・・・

「実際、ちょっと締まってました」と言ったところで、ドバッと涙が出て、ゲラゲラ笑ってしまった。

こんな技術屋っぽい人情的で繊細な視点で面接するなんて・・・も〜ね〜よ!と感じつつ。

自分の人生でそんな目に遭ったことはないのだが、それだ!それそれ!と心の中で泣き、

同時に笑うから・・・表面に湧き出してしまうのだ。

優しさとか、人情、空気は宇宙に無いけど人の気持ちを想おうとする努力は、そんな感じ!と

ドマンナカのストライクだったに違いない。

 

ボノボの社会性は、日本人の社会性と似ている。 つまり郷に入らば郷に従え・・・は

自社と日本の社会性を世界に知らしめるはずだったのを、間違えて相手に合わせて破滅する・・・

国内・多国籍企業が多発してしまうわけだ。 共生の善意に勝る理念はどこにもない、というのに。

日本人の社会性は、弱肉強食の世界では一見弱いものだが、狭い地域で共存するには強力だ。

経済が生物の上に成り立っている・・・と感じなくなった時点で、ヤバイと思うけれど。

地球は今や、増えすぎた人間にとって狭い社会、そして宇宙は次の干拓地・・・のようなものだろう。

そしてまた、開拓された近所の宇宙も手狭になり、狭い社会に生きるための通念が必要になる。

 

最初から閑話休題

 

私にとって、最上級の美味しい魚は、カレイ、ヒラスズキ、カッポレであった。

次点はホウボウ、バラフエダイ、コノシロあたりになろうか。 いづれも刺身の味わいが基本だ。

四番目になったのは、こないだ釣れたちんまいオキフエダイ。

サカナ君以前・・・魚介図鑑が気に入り、眺め過ごし、面白半分で魚の種類を頭に入れていたものの

オキフエダイは知らない魚種だった。

ネットで調べてみたら、成魚について釣りデータのない、姿は派手ながら地味に生活していて

個体数はあまり多くない魚のよう。

 

さて

瀬戸内生まれだから、外洋の魚はあまり食さなかった幼少の頃。

オヤジ殿のカメラ癖の悪さから、仕事用のカメラを自前にするから貧乏生活を旨としていた。

口にするのはイワシ、サバ、ゴマサバたまにアジ。 サンマは北の魚だから、当然なかったらしい。

まれに、夏場はキス、シイラ、サゴシ(サワラ)などがあった。

風邪を引いたときだけ、まだ生きている新鮮カレイの煮付け・・・だったために、カレイの煮付けは

病人食といった印象が先立って、好ましいものではなかった。 今にして思えばモッタイナイ話しだ。

高度成長時代の防府の三田尻港といえば、3大公害港と名を馳せるほど、カネボウや協和発酵の

化学汚染や下水の無い家庭汚水あふれる溜池状態の瀬戸内海だったから

ボラは食用ではなくなっていた。

 

煮つけが病人食になるのには、単純な理由があった。 オヤジ殿が煮つけを嫌うのだ。

オヤジ殿は徳島の山猿のような生活をしていたから、サバの干物か、吉野川の川魚を焼くしかない。

煮付け・・・というのが味覚的に受け入れ辛かったのだろう。

従って体力回復のためのタンパク源としてのみ、カレイが採用されていた・・・出島のようなものか。

なぜカレイだったのか・・・はおそらく瀬戸内育ちのおふくろ様に理由があるのだろう。

 

ちなみに島で瀬戸内といえば、奄美大島南部の瀬戸内町のことで、よく誤解される。

伊勢へ、というと徳之島南部の隣町、伊仙へ・・・と解釈されてしまったり。

 

小学4年のときだったか・・・陸自のオヤジ殿の夏季訓練の場だった秋穂(あいお)に泳ぎに行った。

秋穂にいくのは、貧乏だったからタダで自衛隊員扱いで家族も利用できる海の家・・・だったからだ。

再びちなみに、秋穂は以前も書いたが、クルマエビ養殖発祥の地で、遠浅の砂地が豊かだった。

わりとフツーに、波うち際でカブトガニを見かけ、驚かされたのを覚えている。

ろくに泳げもせず、足が立たぬところでは恐怖を感じる時分だから、得体の知れぬカブトガニは

宇宙生物の次に?恐怖を感じるような甲殻類だった。

 

いつもの夏のように秋穂で過ごしていたところ・・・同じ苗字のオッサン(自衛官)から

「この竿とリールをあげよう」と奇跡のような事が起こって、もらった中古の道具。

当時はグラスファイバーの竿が流行りだしたころだったからか、バンブーを張り合わせた六角竿の

投げ竿をもらってしまった!

 

勢いがついた私には逆らえなかったのか?オヤジ殿が動いて、それから投げ釣りをするようになった。

当時、投げ釣りはなかなか高級な?遊びだった気がする。

なにしろリールが付いたタックルは、金持ちか、よほど釣り好きしか持たぬイメージがあった時代。

 

オヤジ殿は、私の親だからして凝り性も一入(ひとしお)であって、エサは高級イワイソメだったりした。

中ノ関(なかのせき)の基本は砂地jと岩場だから、マガレイ、イシガレイ、カサゴ、アイナメあたりが

当時の投げ釣りターゲットだった。 もちろん港ではチヌ釣りが盛んだった。

新港をこさえるのが流行だった時代だから、海中のコンクリにつくエビ、そしてチヌは常識だった。

 

投げといえばキスだが、中ノ関は干拓されて工業化が進み、遠浅は少なめだったから・・・

そういった釣りの傾向になっていたのだろう。

 

とある寒い春先、オヤジ殿、私、弟で投げ釣りに出掛けた。 当然おいしいカレイ狙いである。

問屋口(といやぐち)というポイントだった気がするが、正面には向島(むこうじま)を見(まみ)える場所。

時折雨もパラつくなか、高級イワイソメをつけ、いただいたバンブー投げ竿2.7mで魚信を待っていた。

 

と・・・ ガラガラガラ!

竿がもっていかれて慌てた。 小学生にとって、根がかりのような重さ!

ま゛〜思い出のワンシーンを再現する必要も無いのでカット、37センチのホシガレイだった。

ホシガレイはマツカワガレイの南方版ともいえる美味で肉厚なカレイだ。

我が家のカレイ釣りでは、オヤジ殿や弟の釣果もふくめ、30センチオーバーのアブラメ(アイナメ)やら

30センチに肉薄するカサゴで彩られていて、食卓はそこそこ賑わったものであった。

 

もちろん、イワイソメの投資もなかなかだったろうけれど・・・さすがに大形で刺身になるカレイなど

なかなか売ってなかったから、相当な美食?だった気もしないでもない。

3年くらい続いたろうか?春先はカレイ釣りに興じたものだった。

 

その影で、せっかくのアブラメやカサゴが霞んでいたのは、痛ましいことだった。

あくまでもカレイの添え物的な感覚しかなかったからだ。

ともあれ私にとって、ホシガレイの刺身こそが「美味スタンダード」なのである。

 

と・・・いったようなワケで、美味しい魚については

1)ホシガレイ、2)ヒラスズキ、3)カッポレ・・・そこにオキフエダイが加わったことになる。

バラフエダイやホウボウも匹敵する美味さだが、確たる理由もなく選外となっている。

 

オキフエダイは、サンゴ礁近所の深場に生息するらしい。

個体数が少ないから出逢うことは難しそうだが、ハードルアーより、ダウンショットリグ(ツネキチリグ)の

瞬発力あるアクションで誘えば釣れそうな・・・気がしてしまっている。 もうすっかりトリコだ。

 

なにしろ、ホシガレイにそっくり味で、鮮度が落ち難いのだというから満点である。

シコシコの歯ごたえ、甘さ、心地いい生臭さなのに磯臭さナシ・・・素晴らしい!

なんでこんな魚が高級魚じゃないのだろう・・・と思うところだが、それほどに漁獲し辛いのかもしれぬ。

今気付いたが、この歯ごたえだと寿司には硬すぎるだろう。 寿司にはフニャ切り身が似合う・・・か。

やはり、私には寿司より刺身が美味い理由があるらしい。 酢=酢酸が現像液の一種というのとは別に。

 

酢が現像所のニオイだから酢飯はとくに苦手だが、そもそも寿司のヤワさが合わなかったのは

根源的に直感的に、カレイの刺身が影響している・・・んだったら、得心がいくような、

あるいは、後日発生したタダの思い込みのような。

 

さはさりとて、オキフエダイの美味さには感動を隠せない。

先日のチヌも、思わぬ歯ごたえと、さほど臭いと感じぬカニ臭で驚かされたけれど、格段に違う。

とはいえ、先に述べたような事物が影響して、私の味覚を形作っているので、万人に向くとは云えぬ。

あんまり著名になったら困るので、私だけの美味であれば幸いかもしれない、オキフエダイ。

 

これから先、釣れるとは思えないけれど、狙いたい魚となった。

とりあえず明日は、急な会合よりも食糧を得られるチヌ釣りに赴くつもりである。

人が働く理由は、そもそも食糧調達のためである。 と、いう大そうな理由をつけて釣りするのは無謀か?

無謀というほどの思考が必要か? 生きていく上で大切な基準を間違えていないだろうか、我等は。

食糧調達は、命の次に大切な事柄、だから釣りに行く・・・んじゃなくて、糧を得に行くつもりだ。

 

ところで

不況や、度重なる天災人災によって、社会的な弱肉強食感や差別感、劣等感が強い人が増えた。

いじめによる自殺が続いているようである。 道徳で封じられるものなら、とっくに封じているかもしれない。

差別は、楽して自分を高い位置に置き、地位や食糧を得られる手段と知っているから起こること。

所詮人間は動物で畜生で、馬鹿な存在でしかない。 

イジメが止まるのか・・・正しい親たちなど期待薄だ。 卑屈な親に育てられた子らが親になった世。

けれどもさりとて、日本の人情、絆はなかなかのもの・・・と永劫に信じたいし、今も信じて生活している。

 

当面は、南国でもホシガレイ並みに美味い魚がいるに違いない・・・と、地球と自然との絆を信じたい。

私の腹は、そもそも自然の味わいに飢えているから、あんまり余裕が無い。

けれど、金で買うでもなく、漁をするでもなく、釣りたい・・・まだまだ余裕あるなオレ・・・

っていうか、仕事の依頼をスッポラカシテ、チヌ釣りに行く理由を考え付く理由を想うなど、なかなか。

反面、家族とか食糧以上に大切な仕事なんてあるはずもない。

うたかたのケーザイ社会とやらを絶対視してしまい、仕事を無駄に崇拝するのは止られてよかったと

心底思うこのごろであった。 仕事は目的でない、手段だ。 子を産む仕事なら、別だけれど。


 

ではまた