島の野草と宗教勘
家がウンコくさい・・・
宗教をキーワードにして思い出したのではない。
ぼっとん便所の換気ができずに家中にたまるのだ。
ほか排水管のなかで何かが死んだらしく、生臭い。
もちろん、南国では畳は腐るかカビるのが普通だから
そのへんの臭さは標準装備であって、それに加えて・・・の話。
今度の家は、前の家よりずっと臭い家だ。
家賃は1万円だが、なんやかんやでカネがかかる。
やれやれ。
尖閣ビデオ流出は、
もともと公開しなかった政府の優柔不断さが問題であって
公開しなかった事実は、アメリカを信用していない事実と同義。
外交としては何重にも悪化した事態を、好転させるキッカケと
思えるのだが・・・
政策が行き詰っている与党野党とも、尖閣ビデオにかまけることで
本論の政策課題には触れないつもりらしい。
国民にもできることを、議員が全力出す必要は全く無い。
しかも、立法が司法に関する審議することは不要で、全く越権だ。
縦割りというわりには、妙に越権し、熱心なのが不自然だ。
もう景気に対する国策がないから、事故対応にお熱・・・
とんでもねーなー、おめーらに払う税金も給料もない。
ま、今年は、健康保険税と自動車税に消費税、
それから酒税くらいしか払ってないのでちょうどいい。
今の国政に税金を払うなど、もってのほかである。
しかも
独身者には、ろくな生活の支援もない、公営住宅も借りられない、
島は高速道路もなく不平等なのだから、もともと払う筋合いもない・・・
年間収入100万いかないくらいで暮らせたら、
それが一番無駄がなくて、いいように思うのだが。
そうそう
あなたは、シューマイのグリーンピースを厄介だし無駄だと
思ったことはないだろうか?
あるいは、グリーンピースを先に食べるべきか
いや後に残しておこう、と思ったことはないだろうか・・・
味に全く貢献していないのに、あの存在感、
シューマイのグリーンピースは、料理として間違っている
ように思う、このごろである。
ただの自動車でも、赤色回転灯がつくと、
気になってしまうのと同じ原理だ。
まーいろんな意味でグリーンピースなんて世界に無用だ。(笑)
それはそれとして
我が家の周りは創価学会の信者だらけだ。
別に私に悪影響がなければいいが、勧誘が始まった。
正直なところ、迷惑である。
遠い徳之島町の会館で学会幹部の会合があり
そこで海外活動の映画があるから見に行ってくれといわれても
ガソリン代かけて興味のない学会活動の映画を見る筋合いはない。
が・・・家を貸してくれた恩義も、あることはある・・・
宗教とはなんだろう。
そのまえに1つ真理を語る。
「怪しいものほど、長い作り話や厚い説明書が必要である」
聖典だの、経典だのが必要なのは・・・推して知るべし。
携帯電話のマニュアルも厚かったなぁ。(笑)
怪しくて、使いにくい機能のイイワケがテンコ盛りである。
宗教jの定義はシンプルらしい。
現世の全てを超えたチカラの概念を中心として拝する観念。
その教えに従う集団、組織、あるいは社会。
そもそも宗教とはチカラの崇拝であるということが、
人類の歴史に諸悪をもたらしたようだ。
道徳でない人智を超えたチカラを中心としたため、
根本のマチガイを生み、犯してきた悲劇。
集団心理を意図的に生み出すための、架空の力、架空の王を据え
不摂生でまとまりのない民衆を戒め、束ねる手合いのものだった。
ばらばらな人らにチカラを与え、まとめる道具としては優秀なものだ。
そして宗教を推進する活用者らによって加筆され
さまざまに都合よく可変していったのが宗派である。
自己の利益を増すために、それぞれの自己が宗派を生んだ。
現代は、心の安らぎを得るための道具にも活用されている。
目の前の困難や大きな障害に対して、間接的に自分を励ます道具。
人間の精神の合理性とは、果てしないなぁ・・・
私は心を癒すには、ボーっとしたり寝たり、食べたり酒を飲んだり。
心の自由こそが、癒しである。
大筋のところ、心の自由がない自分を悔いているのに、
自分では解決策がないと思い込みたいがために、
祈って逃げているのではないだろうか?とも思ったり。
心のよりどころを得るという行為は、自己正当化以外の事柄が
含まれているだろうか・・・?
まー、そんなことを考えつつ、郷土料理の素材を味わってみる日々。
健康にいいという薬草じみた植物はけっこうある。
ただし、苦いからM的素養のある人物にしか味わえない素材?
味のない素材を、画一化された料理へと自由に味付けして食べる。
味覚も宗教と同様に、統一されることで得られる何かがある。
そこにはハマらない素材が、クセの強い野草たち。
どういうわけか、今も流通するギョウジャニンニク、アシタバ、セリ・・・
画一化は「飽き」を生んでいるのだろうか。
島にはながらく宗教がなかったし、今も根付いていない。
簡単なことだ。
祈る対象が画一化していないから、宗教とは呼ばないだけだ。
画一化しした存在を崇め、従属的満足を得るのが宗教の本質。
一方、島は先祖を敬い、祈りをささげてきた。
それぞれに違う血筋で、違う祖先を崇めているから
宗教を、民衆意識の束ね役として使っている手合いには
理解できないだろう。
そもそも、布教などという活動自体がうさんくさい。
信じ辛いものを無理に流布する必要がある事自体、怪しすぎる。
その無駄なモチベーションを生み出すことは賞賛に値するが。
崇める存在や、教示が確かに信ずるに値すれば
布教や、箱もの(教会、モスク、寺院)などは不要だ。
無駄に立派な箱物が必要だった理由は、中学生でも想像がつく。
食べやすく栄養価が高く、栽培しやすい植物なんてない。
というか、そういう植物は儲からないから廃れていく・・・資本主権社会。
現代の宗教はレタスだと思う。
水分ばかりで栄養価もない、味がないから好みの味をつけ
歯ごたえがあるから、野菜を食べた気になれる野菜っぽい食材である。
外食産業からは、かさがあって青みがあり、お飾りとして有用視される。
レタスが出る外食店では、まず健康を意識していない。
内地ではレタス不足らしいが、島ではもともと利用されていない。
見掛けだおしの食材を付け合せても、クレームになるだけだ。
それに日持ちもしない。
権威にすがりたい、とか、形だけでも整えたい・・・というのは
宗教でも野菜でも、島に浸透していかない。
だが、苦くてキドミがあふれる栄養豊かな食材は廃れ
先祖を敬うことも、次第に薄れている。
なのに、島ならではのモノは何かないのか!?と叫ぶ・・・
島ならではの生活を送っていて、コレが島らしさだ!と
外部の権威を求める姿勢・・・
人の生き様とは、とかくこうしたコッケイな不安に満ちているようだ。
単純に、客観性の欠落だと思うが。
テレビを見て世界を知った気になり、客観性を得た気分になっていても
実際は他にすがりたい気持ちでイッパイ・・・日本の姿か?
極めて美味しいわけではない、しかし他になく極まった味わい。
そして忘れられない味、また食べたい味。
左がホソバワダン(ンジャナ)、
右が長命草(チョーミーグサ)ことボタンボウフウ。
下茹でしたのに苦く、どえらいクセがあって嬉しい味わい。
近くの磯で採ってきた、栄養価の高い野草である。
キクー!と思いたいキツサだが、ちょっと毒っぽいくらいキツイ。
現代は、味のない野菜ばかりで困る。
甘いばかりの果物で悩ましいのと同様に。
内地の野菜が不作で、いつもどおりの作物しか作らない島では
9月以降、野菜不足が深刻である。
お店にも、100円コーナーにも野菜がない・・・青いパパイヤはあるが。
ムズィ(ズイキ)は味がないので飽きてしまった。
ビタミンCの多いニガウリですら、ブームで終わりそうなのに
これほどクセのある野草が、現代人の舌に根付くことはないが
こうして薬草が言い伝えられている間は、食文化が失われまい。
何でも安直に天ぷらにするクセは、止まらないようだが・・・
野草の天ぷらは、ほとんど天カスである・・・
秘密にはしていなかったと思うが、私はとてもセリ好き。
島では田んぼがなくなったのでセリは見つからぬし
セリの好む湿地は、ハブも好む。
海岸で手軽に手に入る、セリの香の植物、ボタンボウフウ。
生のまま千切りにし、冷奴の薬味に使うと・・・
そこはもうセリの園・・・の味わいがある。
冷奴にこれほどの幸せ感があろうとは思わなんだ。
ボタンボウフウはセリ科だから、さもありなん。
たくさんほおばると、どえらいキツイにおいがするが
薄まると豊かなセリの香りになる。
美味しさも祈りも、画一的である必要はない。
画一的でOKなら、地球上の生物は一種類に進化、収束する。
間違いなくそういう形に進化するはずが、そうでもない。
世界も宇宙もゆらいで、異性も、味の好みもバラついている。
子供のころから、縛られることが嫌いで、友達も少なく
一人でも遊べる私にとって、画一化ほどつまらぬ事象はない。
本能が、他人と同じ集合体に入ることを拒んでいる。
無駄に集まりたい衆の好む、宗教など受け入れられぬし、
逆に他人には不味くても、私が美味い食材は大歓迎。
そのほうが好都合であると、本能が告げている。
だからといって、結婚しないでいる理由とは違うと思うが・・・
それでも、宗教には偶像も組織も箱も必要なく、
信じる気持ちと、祈りがあるだけで十分だ。
学会も、十文字も、アッラーも、どうやら統治用の怪しい術であって
私の本能は拒んでいるから、個人的に苦い植物より劣っている。
ま、もともと従民を隣国と差別化し、争いの道具となってきた宗教。
従属感が強いので、個の強い我が身には到底合わぬのもしかたなし・・・
それにしても、ボタンボウフウって美味しいなぁ・・・不味いのに・・・
サルから進化したヒトは、群れになりたいのが本性。
それを利用した、合理的な集団形成手法の1つが宗教だとは・・・
動物の縛りとは厳しいものだ。
なのに私は群れが好ましいとは思ったことがない。
それもまた、集団の中に生きざるを得ない人間には厳しいものだ。
私は幼稚園時代の記憶はさだかでないが、
小学校以降の学校生活を心底楽しいと思ったことは無く、
一秒でも早く学校を脱出したかった。
学校に通い始めたころから、青年時代の記憶が希薄なのが証明している。
なぜ、私は孤独相を生きようとするのか・・・
これはカッコウ付けとか、私のアイデンティティを強化したいために
記述していることではない。
こう書いていること自体が、アイデンティティを形成する行為に見えても
私は逆に、恥を忍んで書いている。
もちろん、仲間や友人がいることが疎ましいと思うことはない。
だがズルズルべったりと、一緒に居たいと思ったことはない。
用事があるときだけで十分・・・
「愛」は人間どうしの間に生まれる、好ましい感情。
だが、逆に人間どうしが存在しないことで得られる、
好ましい感情もあるということだろうか・・・
孤独感とは寂しい表現だが、「孤安感」とでもいうような。
個性なのか、偏屈なのか?
それとも孤独感を正当化する意識がそうさせるのか?
それにしては、孤独感というか孤立感を感じなさ過ぎることが
逆に不安になりつつある、今日この頃である。
島の人たちが、適当にチョッカイ出してくれるからだろうか???
どうでもいいが、イベントだの聖教新聞だの、面倒な学会はゴメンだ。
面倒が多いということは、怪しいということに他ならないのだから。