いのりと用心と

変な味わい

 


教員住宅という珍しく恵まれた施設がある。

そこが更新になり、新しく建てかえなので、お古が空くという。

よーまーコンナとこに教師ともあろうものが住んだなというくらい

離島風情あふれる建築物が「立って」いた。

コンクリで壁をつくり、同じくコンクリで板的な屋根を置いたというもの。

隣にはガラス戸を開け放ってごろ寝しているオッサン(たぶん先生)の

ステテコが見えていた。

一戸建てで、今より家賃は安くなるという。

 

今の家は、少々問題物件だったので、電話線以外は手を入れず

放置してきたのは幸いである。

6月下旬に来て、一年を待たずして道路拡張が始まりそう。

 

そうこうしているうちに、もう移住して一年がたつ。

人生、何とかなるのか、それとも何とかなっちゃったのか分からぬが

まだしっかり生きているのは面白く楽しいものだ。

 

人生の進展は感じられないが、後退はしていない実感と

小さな達成感があった。

どれだけ人生が小さくなったとしても、生きればきっと何とかなる・・・・・

 

一年前

洋上から不安に満ちて見すえた島の姿は、今は違って見える。

 

さて

我が集落、兼久(かねく)には、祈りの場がある。

「テラ」である。

 

最近コンピュータの世界でも耳慣れてきた数値表現「Tera」だが

この語源は、紀元前にメソポタミアからインダスの文明が派生したころ

ヒンドゥー経の「大いなる教え」を表す語「Telera」が生まれ

更にギリシア文明においては、異教徒のたわごととして

嫌われる意味合いをもたせ、怪物という「Teras」に変化したらしい。

ということは、数値表現も、現在の寺院、テラも源流は同じかもしれない・・・

 

というのはほとんど創作である。

 

何はともあれ

島では、大願成就から日常の災い事を祓うにもテラで拝んでいた。

 

テラは内地で発音する寺とは違い、おそらく語源は同一だが

島には仏教の伝承者がいなかったので、拝む場所というイメージが

言葉として伝わって、テラといわれているようだ。

テラはシャーマンや占い師の祈りの場にあてはめられたのだ。

 

ちなみに島で神社とか寺の名がつく施設は昭和に入ってから

創建されたか、あるいは、過去のテラを改宗したもの。

 

地元にある兼久(かねく)のテラは

「山テラ」といい、たぶん山にあるテラであって

たった一つしかないテラを、ヤマデラとは言わないだろうし

あるいは、ヤマをつけたほうが苦行っぽい山登り感があって

霊験あらたかに感じるのが流行して格好いいからそうしたのか

は定かではないが、後付けというのは何となく計り知れる。

もしかすると、ヤマを拝むことが先にあり、テラは後から

やってき可能性も否めない。

 

いずれにせよ、ヤマテラスの名残ではない。(なんじゃそりゃ)

 

他の集落ではヤマデラという場合もあるが、

本当にそんな発音をしたかは、まったく怪しい。

テラは高い場所か、山腹に石を置いてお祀(まつ)りした場所であり

ヤマかテラであり、ヤマデラとする必要はないのである。

内地人から偶然聞いた山寺という言葉が定着してるとも考えられる。

失われてしまった歴史は、結果はあるが答えはない。

 

参考までに

ヤマとはヒンドゥーの崇高なを意味するYomaiが中国に伝わったらしい。

というのも創作である。

 

それはそうと

通称「山テラ」は今も拝む場所である。

 

島には神社も寺院もどっちもやってますという

農家を改造した施設もあるにはある・・・

なんかイロイロと観音菩薩や地蔵菩薩の石造とか鳥居とか

ガランガランという鈴とかが見事に同居しているが

一応別々になっているという便利な場所である。

残念なのは、やはりウソっぽいことというか、

それらは便利な拝む場所として営業されているということだ。

いわば宗教や葬祭事のコンビニとして在るらしい。

島には自分を祀った神社も建立されているから、何でもアリだ。

でも、想像通り、それほど浸透していないが

一部の熱狂的ファンが存在していて、一応存続しているよう。

 

気を取り直し

島のテラにお祀りされている存在は「神」である。

仏様も神様扱いで、あんまり区別しない太古からのラテン系!?

というか、仏が伝わらなかったのだから、それでイイノダ。

なぜ伝わらなかったかというと、内地からの圧政と

仏や神を現実の利害に直結しないで、孤高の存在として崇めた

純粋さによるところも大きいだろう。

 

そういう生活直結の存在にはシャーマンや占い師である

ノロやユタといった職業が存在していたからだ。

彼らが居るには居たが、数も少なく、心霊力はやっぱり本来の神!

ということで、神をお祀りする必要があったのだろうと考えられる。

 

では問題の神とは、何者か?というと・・・

 

牛の神様がほとんどだが、時折水の神様もいらっしゃる。

牛は農耕の原動力であり、牛の力が失われる疫病が

人類そのものの危機であったから、牛の危機を救う神が

牛神様であって、世界中農耕と牛のあるところ、牛神ありだった。

もちろん、内地にもアチラこちらに牛神様はいらっしゃる。

  

テラには現実としてナニが拝まれているかというと

石である。特にサンゴ礁が石になった石灰岩の奇岩。

変わった形をし、人型に近いものを拾ってきて、祀る習性がある。

あるものは土偶風の完成度の高いものから、おおむね△とか

凸っぽいカタチのご神体様である。

中にはヒンドゥーのように♂っぽい棒的な神もある。

 

どれも、神々しいより、むしろ奇怪なエピソードに彩られていて、

石なのに海をぷかぷか浮いてやってきた、とか

光っていたとか、であるが、いつからか祀られてあり、

具合悪そうなので、場所を移してさしあげたらタタッた!とか

いささか奇跡というよりマガマガシイ感じも無くはないが

どちらも心霊的なので、まー神様らしいということのようだ。

 

ギリシアの神々など、たいそう人間よりもクセが強かったように。

 

そもそも牛は

平野よりも、山岳や、起伏の多い島々に愛されたようだ。

大体、島は海にそそり立つ山である。

起伏が多くて当然で、自転車通学など鍛錬や苦行のタグイである。

徳之島で自転車に乗るということが、稀有(けう)と受け取られるのは

そういう理由があった。

100mの落差がある台地と川面(かわも)を隔てている落差は

すさまじいものがあり、そうして隔てられた集落は多かった。

 

今でも、数年前に架かった島西部の秋利神(あきりがみ)にかかる橋は

とても便利になったと誰もが口をそろえるように、

車ですら、100mの落差を超えて行き来するのは

とてもではないが、楽ではなかったのだ。

 

おそらく、内地で100mの渓谷や断崖は珍しいと思うが

こと徳之島でも我が町、天城町では、わりと普通である。

南部の伊仙町、小島集落でも同様だ。

 

そういった極端でなくとも、ともかく夏冬とも雨が多く

ズルズルぐぢゅぐぢゅの道であった島では、

強力な労働の担い手が牛であって当然だ。

 

ウマ?そういえば、調べたところ馬もいたようであるが

やはり傾斜地で湿地というシーンを考えれば足が長く

俊足の馬には縁遠い地域であったようだ。

 

そんなわけで、過去、とてつもない牛の疫病が流行って

牛神様をお祀りしたわけであった。

 

そして今、牛は耕運機やハーべスター、軽トラになった。

農耕の担い手という意味では、科学が牛神に取って代わった。

けれども、牛神様は旧日本陸軍出征の武運長久や

安産、家内安全、豊穣をお祈りすることで、

よろずかなえたもう神となったので、兼久の山テラの牛神様は

参道がイノシシに耕されて、ケモノミチになっていてもなお

お祈りの続く現代の牛神様なのである。

 

科学を手に入れた我々は神の世よりさらに学習し、

用心することを磨いてきた。

けれどやはり、用心を安心に変えるには、祈りが効く。

シッカリ用心し、しっかり祈ることで安心に近づくのである。

 

ただ・・・島の人の用心は手薄すぎる。

というか用心しなければと用心しているようだ。

用心とは程遠い、ちょっと気にした程度、思いつきくらいなもの。

圧政や厳しい気候に見舞われ続けたので

悩んでも仕方ないことが、とてつもなく多すぎたためだろう。

そういう人たちと文化が生き残って現代に至っているのだから

ま、そんな感じの雰囲気・・・ということは分かってもらえようか?

とはいっても、内地のような厳かな感じを演出する

ある意味高度な商業的?宗教儀式は存在せず

見聞きしたり考えたものを実行した手作り感があって、

祈りの本質を知る思いだ。

 

根本的に思索を巡らせる体質がないので、

とりあえず困ったら拝んどけ!というわけである。

 

その手順は、

おそらく現代の占い師が、自分の霊験を具現化するため

儀式を行ったり、あるいは行動を指示するものだったのだろう。

 

テラを出た後、光の指す方向へ歩いていき、一番近い店で

黒いプリンを買って、二日寝かせてから朝日に向かって三度

礼をしてから、一本のお箸で食べなさい・・・

的なものであったのだろうと思う。

 

それは昔の占い師やシャーマンの哀しい功徳であったろう。

 

ここでいう、黒いプリンは、イカ墨プリンでも、黒ゴマプリンでも

あるいは日付が過ぎ去ったチョイ悪プリンでも可、だったろう。

要は本人がどのように信じ、実行するかが問題なだけだ。

 

現実に病の家族を治したいと、アラヒトガミからのお告げを守り

彼女が祀られている神社の近くの泉に水を汲みに来る信者も居る。

 

儀式は存在すればよく、祈りにチカラを与えてくれるような

気持ちを導き出すことが、最も大切なのである。

 

同じ成分であっても、高い薬の方が効果が大きい場合があるように

成分よりも精神的な効用が、体内の回復力を呼び覚ますことから

プラシーボ効果(思い込み)の大きさは計り知れない。

 

考察するに

兼久の山テラとはこのような効能のある場所であるのだろう。

質問、ご神体はイズコでしょうか・・・?

 

焼酎の供え物はことに多い。

島人が特に愛して止まない、しかもゼイタクな嗜好品であったから

断然お供えしなくては気が済まぬ存在だったのだろう。

 

おそらくお神酒も、アルコールで清めるのではなく

その時代のぜいたくな水だったからこそ、献上し始めたと思われる。

 

問題のご神体は、右の花器の右に倒れた茶色の花器があるが

その後ろにおわす凸が御神体であらせられるそうである・・・

 

最初は祈る対象がなければ祈り辛かった。

そして祈る場所が決まってしまえば、もはや御神体が何かは

問題でなく、ともかく祈らせてもらえれば十分・・・ということだ。

 

島人の思考はとても分かりやすい。

 

形式にはこだわらず、本質?へ直球勝負である。

しかし本質が本質として見定められないので、すぐ空洞化して

ナニがどうだったっけ???というのが一時万事である。

 

ここで省みる。

 

人は、生きるために文化を得たのであって文化を築くために

存在しているのではないのではないか?

しかし人から文化をの除外すれば、ただの大破壊的サルか?

 

これまで生物は、ずっと生きるためだけに生きる存在である。

それ以上でもそれ以下でもない。

おそらく、この宇宙がそのように定義された次元といえる。

より高次元も低次元も存在するだろうが、おそらく現次元ではない。

 

もし、高次元の存在が、生きるためだけでなく存在したとしたら

我らに気づかれることなく、ゴク自然にチカラを行使することを

感じないように、様々な好奇心を満たす試みを繰り返すだろう。

あるときは瞬時に、あるときは時間を戻し、あるときは夢の中で

またあるときはとても小さな影響でとてつもなく長い時間で・・・

 

それは高次元なので、我々から見れば神々の戯れに見える。

 

閑話休題。

文化文明を重んじるあまり、生の第一義を忘れはしないが

当然のように感じて、生きられることを軽んじているのだろう。

 

祈りは、生きるうえで大切なことを願う行いであり

願うのは大願成就も、野望も、生きたい思いそのものであり

地球の一個や二個破滅させるくらいの野望であっても

クローンでうたかたの不老不死を得ても、やっぱり生きることを

選んでいるだけである。

 

少なくとも、ボコボコにイノシシに耕され、不法にイノシシを狩る

虎バサミがしかけられ、それ以上にハブがいつでてくるか

分からない山道を足しげく祈りに通う島人がいる祀(まつ)り場は

生きる意志に満ちていると感じている。

 

だから

兼久の山テラは本物だ、地元ビイキでなく参詣してそう思った。

祈りの場とは、頭の中を一つの思いへ整理する場所なのかもしれない。

とりたてて高い山ではないが、集落からぬかるんだ道を

数キロ歩いて詣でるテラであったろう。

 

美味しいというのは、祈りほどの思いはないが

生きたいと思う原動力が感じさせる事柄だと思う。

 

意味のない小さな発見があった。

ヨーグル豆乳・・・ヨーグルトを食べるとき、成分無調整の生々しい

豆乳を入れていただくのである。

高たんぱくで、低脂肪なのにクリーミーなヨーグルトになる。

だが、何のためにそうするのか、まったく意味のない発見だった。

ただ、たちまちヨーグルトのツンツンした香りや味がマイルドになり

マッタリとするのはオドロキである。

 

たまたま、大好きな豆乳を飲みながらヨーグルトを食べたことに

起因するものであった・・・意味ない・・・つくづく・・・

でもなかなかイケル。

 

ヨーグルトに含まれる、ちょっと気になる酸味や香り、

豆乳のふくよかだけれど、豆腐そのものの香りや味が反応し

互いの個性を打ち消しあうようのだろうか?

いずれにせよ、不思議なマイルド食品になる。

 

味噌汁の最後で味噌を加えたり、最初から麺にスープを

練りこんだラーメンがないような、短時間の合わせ技なのか

あるいは、出汁としょうゆをブレンドして寝かせるタレや

時間をかけて熟成させる酒のような長期間の技なのか・・・

どっちでもいいが、活かせない発見である。

とりたてて、アレルギーの子供達の役にも立つまい。 

 

けれど、これから先はずっとブレンドしてしまいそうな

マローンとした自然なまったり感がたまらない・・・

何かのヒントにならないものか・・・まったく無駄な人生の使い方を

絵に描いたようなというか、写真に撮った一幕であった。

 

それでも、徳之島を最期の地だと思いかけていたが

まだまだ先は長いかもしれないと思えるようになったのは

テゲテゲ支えてくれた島の友人たちと、皆々様のおかげである。


あらためて、移住一周年のを迎えられたことを感謝いたします。

ご迷惑をかけてしまうので、よろしくお願いはいたしませんが、

ヒマと好奇心のある方は、これからもそのまま継続して

いただきますように。

 

というわけで、徳之島二年目は眠くてクタクタながらも

明るい心持ちで迎えられたのでありました。

 

本当に、おかげさまでございます!


ではまた