心の最高気温と
少しとけてきた島のナゾ
島は明治まで文盲、薩摩藩が圧政により強制した。
少ししかなかった貴重な文物も、薩摩は焼き捨てたと聞いた。
最初は、交易だったが、そのうち黒糖がなければ生活物資を
渡さないといった卑劣な交換方法に変わり、そして勉学も禁止。
アツヒメなんざ嫌いはしても好む理由はなかった。
そのような薩摩藩の末えいである鹿児島に
なぜ徳之島が属しているのか、理解に苦しむが
沖縄にはなりたくないというプライドがあるらしかった。
沖縄の激戦は語られるが、何百年も続いた砂糖地獄のことは
意図的に葬られているようである。
明治に入っても、黒糖の利権を手放したくないがため
鹿児島藩関係者が、歴史を葬ったと考えても良かろう。
こういった背景から
漢字の地名など、ほとんど意味をなさない社会である。
口伝えで、日本語のエッセンスを受け継いでいて
何百年もの隔たりで訛りはあるけれど、それだけ重みも感ずる。
ヒョージュンゴに毒されていないのである。
思うに、ヒョージュンゴは関東のコトバベースだとされるが
どう考えても、そのコトバが長州に近かったからではないか?
ともかくイントネーションがまったく山口弁と同じなので、
山口県人には、普通に話せる言葉なのである。
つくづく関西人が覇者でないことに、胸をなでおろした次第・・・
といっても、朝廷時代は京都のコトバが標準語だったようだが。
ドスとか、オジャルとかそういうのだったんだろうか???
ま、そんなことは言語学者の考察に任せる。
天城町内で聞くところによると
日本語が太古に失ったとされる発音が島には残っているらしい。
取材して回っているうちに、少しずつわかってきた。
Kの、クの喉の奥だけの発音
チの発音はツィとの住み分けがあったのが退化した感じで
スズメ「と」メジロの、「と」がトゥという発音がトにとって代わり
二の発音はヌィに近い発音でネと聞こえ
ヌの発音はヌォとヌゥの中間
本来あったと思われるファの発音はなく、フィ、フェはあり
フゥーは大きいと言う意味で、沖縄ではウフとなり
マは、ムと中間の発音で、ムの口で(ン)マと発音し
宮は、(ン)ミャーと発音する。
語尾を延ばすのは、島の北西部の特徴だったりもする。
宮は、分家のような意味で使われる。
ウンミヤントゥという小字は、上宮塔と記述されるが
山に近い上の方にある、後から作った田で、高い場所、
という意味合いであろうと思う。
ちなみに塔の反対は策(サク)で低い場所という意味。
フゥーは、エーゴのFの発音でなく、Whである。
ミは同じくムの口でウィと発音して、ムィ(ロシア語のMы)
メは、閉じた口でンを発音しながら口を開いてメェという感じ
などなど
できるだけ口を開けないで半端に発音できるよう
変化していったようである。
純粋な?アとかオの発音はとても少ない。
アカヒゲという鳥の名がハーヒギャになったのは
カの発音をなぜかやめ、ゲの発音をギに近い発音としたが
分かりにくいのでグィに近い発音に変化したのだろう。
ハーヒグィに近い発音。
より近い記述なら、ハーヒギヰ(エの口でイの発音)だろうか。
一方、赤が沖縄では赤はアカなのに、ハーに変化するのは
長い江戸時代、内地と交易していた琉球王国と違い、
薩摩藩の圧政による奄美諸島の暗く閉ざされた歴史を物語る。
あるいは・・・逆に内地でそういう発音があったのかもしれない。
逆を言えば、無い発音もあり
ハッキリしたオ、サ、ス、ツ、ト、ネ、モなどである。
つくづく、中間的で口を開かない発音が好まれたのだろう。
数百年も閉ざされた島、集落で伝わったのだから
文法が同じなだけでも、感謝すべきだろう。
問題は・・・だれも教えず、学ばず、ただ伝わっただけなので
正しさと言うものは存在しない。
ダの発音が、ザやジャに変化するなど想像がつかない。
地図上では
松原集落東部の支流は加寺田川(かてらだがわ)なのだが
明治までの発音は、カテラァザゴー、カテラダゴーだったりする。
川は河の発音に近い、コウかコーである。 濁ってゴーにもなる。
徳之島空港の南にある湾屋川(わんやがわ)は、ワニャゴーだ。
でも地元浅間(アジャマー)集落だけは、
ワナゴーラ(湾屋川原)というらしい。
昔は川も河も発音は同じだったのか
あるいは、細い川しかない島で合一されてしまったのやら・・・
もっと問題なのは、加寺田川や湾屋川は明治以降の当て字で
本来の名前と、漢字の文字に縁が無いことだ。
一方、コーが川と思うのは昭和40年代生まれの人までで
それ以降の島人は、どうも知らない可能性が高いようだ。
戦後は島口を使うと、ビシビシ体罰があったそうだ、複雑・・・
テレビ放送が拍車をかけたのかもしれぬ。
僕は逆に小学生のころ、地元山口放送から流れるラジオ
故・吉田治美の「治美姫じゃ」でマスターしたくらいの時代だ。
不思議なのは、文明開化のころ西郷どんが流されてきたとき
話が通じているということである。
あるいは、薩摩とのやりとりに通じた役人や世話人だけが
話を聞けたのだろうか・・・?にしては人気がありすぎる。
外界との交流に不要なものほど、方言がきついのは当然だろう。
虫や鳥、草の名、捕ってすぐたべる海産などである。
日常会話にもそんな片鱗が聞こえてくる。
天城町ではおおむね
朝食を ヌィーサル
昼ごはんを アスィー
夕飯をユーフィ という。
別の地域では、ちょっとぶれた発音になり
南部の伊仙町では朝食がインシャルとなる地域もある。
これらをたばねて、サルシーフーと言って覚えたらしい。
与名間集落のオジーマ(山口弁で元気な爺様)が語ってくれた。
子供らでも覚えにくかったんだ・・・でもなぜこんな名に?
大和朝廷のなんらかのコトバが伝わったと思うのだが
似た言葉が、記録にあるだろうか・・・
反対に、区別がつきにくいから、ハッキリとする方向に
変化した言葉もあるように思う。
薩摩藩から開放され、自治権を得た集落民の若者達が
作った交流の場が、ユクワィバ(漢字では愉快場)だったりする。
すごく近い言葉づかいがあるのが不思議である。
あまり使わないままに伝わってきた言葉は、純粋なのだろうか?
はたまた、当時最新の流行語だったから使ったのか??
さだかではないが、それでもユカイではなくユクワィになっていて
しかも愉快は生活用ではなく、文芸コトバである。
一部、中国から伝わった名詞もあるようなので
南下した日本語と、北上するタイワン語?があったようだ。
魚の名の末尾に、イユ、ユーなどがつくのがそうらしい。
奄美でも、マダイのことを、テーノユ(テーはタイの変形だろう)と
言ったりする。
内地では、古文書こそ歴史だが、古文書もなにもない島では
今あるものだけが全てである。
石、言伝え、方言、冠婚葬祭、料理などである。
ただし、内地も落とし穴がある。
方言に残されている事柄を軽んじて、
役所や神社などに残る記載だけを重んじるために、
本来伝わった発音が失われることで、本来の意味すら失われる
可能性が高いということだ。
山口弁に、ジルイという表現がある。
標準語にはない、道がぬかるみ歩き辛い状況を、一口で語る。
しかし、道路が舗装された今では、使われなくなってしまった。
島では、そのような状態は日常的だったので表現がない・・・
皮肉と言うか、分かりやすいと言うか、人間も動物だなと感じる。
ちなみに
ジルイはジルィー、ルィーはロシア語のРЫの発音に似ていて
ルの微妙な巻き舌やウとイの混じる発音で、カナでは書けない。
言語表現とは多彩である以前に、伝わるだけで十分だった。
文芸とは正反対の方向性が、ここに厳然と存在する。
ということは、文芸に対して高度さを意味づける反面、
動物生活には、無用の長物であるという
厳格な引導をわたしていることに他ならない。
豊かな時代には文芸は栄え、貧しい現代のような時代には
細々としてしまう現実が浮き彫りになっている。
現れては消える表現とは無縁なのが、島口なのかも。
ところで、こんな島口を研究しながら仕事できるとは
とても幸せで、テンションがあがっていく一方で、
脳内で処理できない情報が増えたり、
全然期末までに終わりそうにない内容に、
眠れない日々が出始めた。
島の人には、不眠症をナンボ説明しても
感じてもらえないようだが、察してくれる人はいてくれる。
脳内の病も、ひょっとすると何とかなるかもしれない。
期末までに終わってしまおうというのは、実は鼻から無理な話で
思いつくままに、全て盛り込んでみようというのが主旨だったから
上手くいかなくても、その努力こそが大切な取り組みなのを
すっかり忘れている自分がいた。
けれど一応、役場としては型どおり成果が必要なわけで・・・
集落の魅力を掘り起こそうとする我らが、
島人の誰かを動かすことが、一番いいんだから
資料の完成が、本来の目的とは思わない方がいいと思うことに。
来年度は自動的に今の職はクビになるから
今より少し島のアレコレを探求する時間ができるだろう。
ナーマシゴーイジュンという泉のちかくにある
記憶に残るイジュンの場所を案内してもらったら、
幸い、まだ周辺住民の手当てがあり残っていた、
ナーシマゴーイジュン。
地元のオジーマですら、
なんちゅー似たような名なんだと驚くほど
もはや、集落でも忘れられている。
もちろん、となりの集落からはこの泉を使うこともないので
別の地域には知られていないのであった・・・
水質が良く水量豊富なイジュンは知れ渡り、
別の集落からも利用されていたようだが。
もう少し離れた場所には、ナーマイジュンというのもある。
ナーシマ、ナーマシ、ナーマはそれぞれ違うのだけれども
島のジーサマですら、ほとんど知らんわ的な存在みたい。
小字の名が冠されることもあるが、由来不明な名も多い。
でも、それぞれ意味はあって、言葉の由来は「何となく」
分かるらしいことは察するが、やっぱり明解には分からぬ・・・・・
たずねたところで
コトバが半分くらいしか通じないというか、耳が遠いというか
聞く気がないというか、で、会話のハシバシから想像するのだ。
イジュン=泉だが、名の末尾にゴーとかコーがつくことがある。
ナーマイジュンはナーマゴゥイジュンとも言われていたよう。
泉からは水が湧き出すので、小川になる、だから川を意味する
ことばが付いてくるが、つけない人もいたりする。
雨が多いと、コー(川)になり、枯れると別の泉へ行くそうだ。
水深は深くても1mもない。
これで何戸もの家を潤したというのだから、本当か?と
またたずねてみた。
女性や子供達は、早起きしてぬかるんだイジュンを目指す。
イジュンは自然の湧き水だから、周囲は湿地帯。
水汲みでよく転んだと、アチコチの集落誌に残されている。
当然、ハブも出る。
一番澄んでたくさんある一番乗りがいいのだが
二番手では濁りが入ってくる。
水位が下がって汲みづらくなったら、湧いてくるのを待つそうな・・・
行列して待ったそうだ。
井戸を掘ると、満潮時に海水が入るので
自然に湧いてくる泉を利用したのかとも思ったが
洪水で地形が変わるから・・・らしかった。
固定しても意味がなかったようである。
戦後ようやく、コンクリの枠がこしらえられたようだ。
けど、
台風と塩害の島にあって、埋まらず、錆びず、
明治以前の「日常生活史」が残っているのには
静かな感動がある。
内地にはめったに残っていない貴重な、生きた遺跡?
ながら
値打ちが分からぬから、風化寸前というのも、
シマらしいといえば島らしい・・・
薩摩藩に消された歴史を、少しでも残そうと思わんのか・・・
けーれども、けれどもである。
人知れずメンテナンスされて、残っているのも島らしい・・・
というのも、正月つひたちに、若水をくんでいる風習が
家々に受け継がれているようなのである。
そもそも内地人は、若水って知ってるか???
僕は知らなんだ・・・
すげーだろー!島文化!!
昔の文化を引き継ぎながら、現代文化を生き抜く日本人だぜい!
テゲテゲだが、一緒に生活していて、とても誇らしくなってきた。
ことごとく物忘れはヨロシイが、先祖のことだけは忘れない。
月命日と一日と十五日には墓参りを欠かさない。
寅の日はさけるんだっけか・・・? 忘れた。
そんなこんなで
取材先では甘く大きなハッサクをもらったり、野菜をもらって
更に、通りがかりのS間オバサンが、どっさり大根をくれた。
いただきものは重なるものである。
ふしぎに、皮の下が紫色の大根で、卸したらフジ色になる。
島みかんなど酢を加えると、ヒカンザクラのような色に変わる!
いかにもやわらかで美味しそうな紅色になるのである。
味も香りも全く普通の大根で、ちょっとポリフェノールが入った感じ?
ちょっとした名物にならないものか・・・南国の一番咲きサクラ卸し。
赤大根の雑種だろうか???確かに短くて小さい大根である。
調べたところ、アントシアニンが含まれているようで
本当にポリフェノールの一種が含まれているということだ!すげー!
ちなみに、カテキンもポリフェノールらしい。
この時期、毎日大根卸しを食べられるので、本当に嬉しい季節。
辛すぎないのも優しくていい。
そろそろ、庭のシークニン(ピン球くらいの、島みかん)も
甘くなってしまって料理には使えなくなってきた。
鳥たちが、毎朝真面目に食べているのがその証拠!うるさいし!
さっき、知らない夫婦がハサミを持ってやってきて、
庭先へ入り込んで、アイサツもなしに取っていった・・・
ポン酢に使うみかんがないかなぁ・・・
そういえば
栽培しているご当地しかないらしい、間引いたニンニクの芽が
とても美味しいと分かった。
内地で売っているのは、花芽で、花が咲く茎であって芽ではない。
ニラを太くして、根っこはしっかりワケギ風のニンニクは
ナベによし、麺の薬味によし、炒め物の香りによし
なんで流通しないか不思議だ。
ニンニクは葉の部分の農薬規制がないのかもしれない・・・
ともあれ
食生活は野菜中心にテンションが上がってきた。
一方、仕事の締め切りに間に合いそうになく、寒くなると急に
ウツっぽい感じになり、悪夢が多発したり眠れなくなった。
油断できない生活である。
暖かくなると、小夏日和になってしまい、寒くなると晩秋になる。
野菜も、冷蔵庫に入りきらないし、葉物は浅漬けにしても
しきれないほどになっている。 誰かにもらってもらおう。
生活は知らない軌道を描いているように感じるけれども
まー、前に進んでいるようでもある。
サクラも咲いているし、元気ださないとな。