漢字の感じ

 


ナンチャッテ商品に天安門、何千年の歴史か知らんが、いや知りたくもないが

北朝鮮同様、やっぱりアカの国は、共産計画自体を考える英知が壊れている。

我らの日本文化に影響を与えたなどと、恥ずかしいから地球上で口外すんなよ。

 

ところで

最近また不眠が好調になってきた。 悪い癖でつい、ドーセ眠れないなら・・・と

先日、思い切って夜の林道クルージングに出かけてみたところ、やっぱり進行。

面白いのは、何時に寝ても4時半から5時半の間に目覚めることだ。

3時前に寝ても・・・である。 どれほど頑固な体内時計?どれだけ夜明け好き?

あ゛づぐで昼寝もできねえ゛〜


 

漢字とひらがな、カタカナを組み合わせて情緒豊かな表現ができる日本語。

ニホンゴと読むか、ニッポンゴと読むのだろうか?根本的に意味を習わない漢字。

慣れだけで使うと文化は崩れてしまうが、それも文化というウガッた見方もある。

 

ウガッたと描いたように、僕の場合はイメージを描き出すのに文字を使っている。

文字通りウガッた使い方と言えるかもしれない。

 

あまり画数の多い漢字を書けないので、読み辛い漢字を格好つけて使うと

読むときにつまづいてしまい、文章の意図が薄まる気がするのだ。

うろ覚えで何となく読めるものの、書けない文字は使えないタチでもある。

 

薔薇バラばらは受け取る印象が違うと思う。 僕は漢字の薔薇は書けない。

漢字で植物を表現することは、僕にとっては大正浪漫的な、古典文芸に感じる。

僕の場合、植物は生物的に語ることしかないためなのだろう。

薔薇の花束でもって情熱を伝えるような道具ととらえていないためだ。

バラは西洋からやってきた園芸用のバラな感じがする。

ばら野ばらっぽい。 個人的な印象を優先して自己流に使っている。

その時に抱いた感情の中心がどこにあるのかによって、漢字の使い方が変わり

未来に自分が読んだ時に、情緒が伝わるかもしれないと思ってのこと。

 

うつを鬱とせず、ウツと書くことで、陥らずに精神現象として冷静にとらえようと

努力をしていたりもする。

鬱なんぞと打ち込んでいると、陰うつそのものに落ち込んだような気分になるし、

手書きして覚えたいなどとは毛頭思わない。

 

ちょっと鬱がらみで要らぬことを調べていたら、結ぼれるという表現に出逢った。

いやこれはシンプルで言い得た良いニッポンゴである。

思いや考えがもつれ、解こうとしてなお結びこぶになっちゃった的な心の状態。

知らなかった、こんなすばらしい、わが身にピッタリな表現!

あまり深刻にはなりたくないが、常習的に困った感じが良く表現されている。

あぁ、これだ・・・これが僕の軽い軽いウツ感覚、すなわち結ぼれ感・・・

 

ウツ感覚は薄いけれども、悪夢で胸が締め付けられて息ができなくなるのは

いわゆるうつ症状とは、趣きを殊にする別の症状を感じているのだ。

 

ま絵文字で使う専用のような古い漢字もあるそうだが、それはそれだ。

単なる形で使っているので、それも時の流れ。

もっと違う表現が現れたら消える運命なので、当用漢字だの乱れだの

意識しないほうが、ごく自然だと思う。

 

こんなとき

ごく自然・・・を極自然と書いたら、すんごく不自然・・・と感じるのは不自然?

漢字に変換したからといって意図が伝わらないのでは、使い方が失敗だ。

 

言葉は伝えたい気持ちか事柄が伝わりやすくする手段であって目的ではない。

が、モノカキの方々はあえて道具として使い、自分の著書、論述を売るために

目的化してしまう場合もある。 高度にヒネクレた表現を用いて遊ぶのだ。

高度なわりに・・・興味深い、面白かった・・・などの簡単な言葉で感想される。

やっぱり結論は情緒じゃん・・・

拒否か賛同、好きか嫌い、思いで動く生き物の結論は二つしかないのだろう。

 

一方では

ひらがなというのはガイジンには真似しづらい独自の文字だから

すすんで使いたい、なんて気持ちもあったりするので、良く使う。

特に手書きのひらがなには味わいがあるし、和歌などの草仮名もいとおかし。

 

一昨日

NHKで夜7時半からクローズアップ現代で、常用漢字について報じていたので

こういう文字表現の場を営む者としては気になったので、少々考えてみたワケだ。

 

ケッサクだったのは、漢字について解説している有識者らしきが

ボードに書いたのは、ヘタ過ぎて読めないグダグダの文字、しかも小さすぎる・・・

青という字の月のはねが・・・ってそれ青だったんだ、へぇ〜と別の意味で感心。

女性キャスターの目が一瞬曇ったのも仕方あるまい。

文字は記号じゃなく言葉だから、人の思いをカタチにしたものであって、

本人を表す存在、どんだけ漢字に対してイイカゲンなオッサン?と思わしめた。

おそらく解説していた彼にとって、文字は記号か商売道具でしかないのだろう。

 

いやはや、

漢字を語る昭和のオッサンがこの体たらくでは、漢字も言葉も乱れるわ・・・

と印象を持った方も少なからず居るのでは??? 笑うに笑えぬ報道だった。

 

言葉は共通認識の集合体なので、その根底が崩れたら意味を成さなくなる。

が、ある程度崩れたり、新しい使い方が豊かな表現になる場合もあれば

世相を表して変化する場合もある。

 

僕の大嫌いな言葉に「なります」がある。

世相だ。 まったく自信の無い消極的労働者言葉である。

レジがはじき出した金額なので、こうなっちゃいました、とか

これが○○という商品になります・・・ウチの会社のそういうキマリに準じ

自己の判断や良識というものを差しはさまず、責任転嫁を表現している。

質問されても余計なことはワタシ答えられません、という無責任感が

あまりに出すぎ・・・と感じられて仕方がないのは僕だけだろうか。

 

この言葉を使う人に会うと

「あ〜あ、労働者なんだ、一生何かのせいにして生きていっちゃう人なんだ」

と、ことさらにガッカリさせられる言葉なのだ。 働かないで、仕事だ。

こういう人には突っ込みを入れない、入れても無駄だし進歩もない。

お釣りが多すぎても、絶対にお返ししませんよ。 なっちゃったんだし。

 

商法では、いったん相互の合意で売買契約が成立した件に関して

後から金額を訂正し、差額を請求することはできないらしいので。

 

責任を転嫁しようがしまいが、レジで売買契約したニンゲンに責任がおよぶ。

よく、POSのバーコード入力が間違っていて、お得になることがあるが

最低限の責任感が足りないな、とサラリ無視して流すことにしている。

 

といったように、とても情緒的に受け取られる「言葉」をカタチにしたもの、

それが文字。 言葉と違い視線や表情、語気を使わずに、可能な限り

意思を伝えるための存在なので、やはり情緒的に使いたい。

活字が招いた均質感も、文字使いの形骸化を招いているのかもしれない。

 

え?書いていることがカタイ? 昭和のオッサンくさい?

そう、それが伝わることが自分をホウフツとさせる文字、文章のあり方。

テゲテゲ生活を目指しながらも、住4ヶ月目ではまだ変わらぬ姿、心持ちが

何となく見えるような文章になっているのではないかと思う。

 

漢字

一文字で意味が伝わる。 けれど、意思は伝わりにくい。

 

絵文字のように、開けっ広げで直接的な表現をしてこなかったニッポンジン。

学問や文人のための道具だった時代から、やっと人の背丈に馴染んできて

タテマエや仮面的にもちいられた表現手段から、直接表現に進化する時代に

入ってきているのだろう。

 

客観的な現象表現から主観的な感情表現へ文字が進化するのは

情緒の定型化や喜怒哀楽などの標準化でありながらも、

標準化する前の段階では自由度が大切だと思う。

 

の下にと書いて、反応に困る・・・ 偏にと書いてニューハーフ、

偏にと書いて婿養子、の下にと書いて滝のような感涙、

の中に更にと書いてヒキコモリ、偏にを書いて牛丼チェーン、

の中にと書いてパソコン、冠にと書けばウドン?いえいえ鰻丼、

偏にと書いてモンスターペアレンツ・・・ を三つ重ねて超多い、

草冠()の下に、更にその下にでジェーリーグ・・・

ならば当然、草冠()の下にならサッカー日本代表・・・のような自由度が

漢字という仕組み自体にも必要なのかもしれないし、言葉の新しい広がりを

受け入れて漢字化できる社会システムも必要なのだろう。

(※良い子は絶対参考にしないように)

 

でなければ、漢字が減る一方ではないか。

振り仮名がカタカナっちゅうのも新しい・・・?

定着したら新たな漢字だが、死語になったら結構恥ずかしいかもな・・・

 

仮名の発音も減ってきた。

沖縄や奄美には仮名で表現できない言葉が、まだまだ残っている。

奄美にはケンムン、沖縄のキジムナーのような?森の精霊の名がある。

でもケンムンのケは「う」の口のカタチで、ケと発音する、ケとクの中間だ。

徳之島のカムィヤキ遺跡の小さな「イ」は「い」の口の形で「うぃ」と発音する。

器である瓶(かめ)を焼いた窯元の遺跡、「カメヤキ」のことだ。

島口の印象を残すために、あえてカムィと書いたのだそうだ。

発音は「カモゥィ」っぽい感じになる。 

個人的にはЫ(ロシア語の母音の一つ)に近いなぁと思った。

島は集落ごとに方言が違うので、別の発音もまだまだ残っているだろう。

 

ことばから文字が生まれ、それぞれ近づいたり遠ざかったりしてきた。

 

我々が知っている「てふてふ」と書いてチョウチョウと読むが

実はそのように発音していたのではないのだろう。

しかも、今ではチョウチョと発音されている。

 

こうして書いている記事は、口語とは異なる表現がたくさんある。

その方がなぜか書きやすいし、頭が整理しやすいのが不思議。

「でもさぁ」と書くより「けれど」や「しかしながら」と書く方が逆に笑える場合もある。

ニヤけて言えないギャグも、文字だとシリアス文調に描かれてしまう面白さ。

今は仮名について、てふてふの様に読み方を学ばない、シンプルな表音文字へ

変化してきたところであり、漢字についても数を減らしながら?というより昔の事柄が

今に伝わる必要がなかったから失われたものも多いから、見直しの時期といえる。

 

齟齬をきたす・・・なんて必要か? 役場関連の仕事をしたとき覚えた言葉である。

責任ある役職者が勘違い、思い違い、意思伝達の不備などという表現を

使いたくないときに用いる都合の良い言葉だ。

遺憾などと口外するヤカラも多いが、あれは自己や内々に対して発する言葉であって

起きちゃってスミマセンが転じて、横柄な謝りに用いる言葉ではないはずだ。

部下の責任は上司の責任、それがオトナよ。悪かったら謝りなさいよアンタと、と思う。

そういう語弊のある使い方が、今や道具として成立しているのが責任者言葉。

 

責任者なので難しい言葉が使えます的な恥ずかしい風習が残っているのだろうが

キチンと良識があれば、別の使い方をする言葉・・・遺憾なく活用して欲しいものだ。

妙なツールとしての言葉を精査し、本来の意味・意図へ補正する作業も大切だろう。

 

もともと、当用漢字は

戦前に政治屋が難しい漢字を使い民衆に分かり辛い政治議論に興じたため、

民主政治を煙にまかないように、との思想から生まれたものという。

今は正に漢字ならぬカタカナで同様の現象が起きている。

パブリックコメント、マニフェスト、ガバナンス、シナジーなど、カタカナで表現したから

新しいことです・・・というものでもなく、目先を変えたかっただけのコトバだ。

政治屋はルー大柴ライクな議論が好きらしい、結構笑える。

 

常用漢字を云々する前に、常用単語を決める必要があるのだろうが

相変わらず主旨を離れて暴走したがる向きには、面白がって視線を向けたい。

謎のシンニョウは、点が二つか一つかなんて心底どうでもいいと思うし

三鷹市の鷹が外れてたとて、歴史あるまちの名であって、古臭くて使えない

と解釈されるわけではなく、常用漢字外の地名、人名は山ほどある。

本論とは全く違うところで、妙に真剣に議論される姿は、滑稽で愉快だ。

いやむしろ、間の抜け具合が図抜けていて痛快ですらある。

 

これからは

旧来の記憶容量が少なかった情報機器の制限などに気を使うことなく

どんどん多様な言葉や文字を展開できる社会になったのだから増えるのが当然。

削って文化が深まるのだろうか? 思考力が高まるのだろうか??

水戸黄門・光圀の名を漢字で書けなくてOKとは言い難い人が多いと思うものの

言葉や教育の均質化、標準化によって、少なくとも日本各地に残る文化、史実を

切って捨てる破目になっているのは現実だ。

しかしながら、常用漢字外なんで・・・と史実に登場する人物名を覚えぬ行為は

肯定されて然りとなる。 現存する人名にも波及して然り。

新聞では将来、人名も常用外の場合、ひらがなで書かれるのだろうか?

確かに当て字っぽく読めぬ人名には、変換や電話の呼び出しに手を焼く。

 

自分の名前が、安易な常用漢字だけで出来ていることに気づいたとき

両親の思いの深さや知識に対して、多少残念な気はしまいか?

変換されないパソコン辞書などに遠慮して命名されたと知ったとき

いささかの不満や疑問はないだろうか??

 

少なくとも僕の氏名はとても安直で、一発変換できることに寂しさを感じる。

事実、女性の名ばかり考えていて、生まれてびっくりだったそうな。

弟はもっと楽に決まったようで、僕が文だから武・・・

エ〜カゲンにせい!人の名を何だと思ってるんだ!と突っ込みたくなる。

確かにオヤジ殿の名は常用ど真ん中、次男だったので中だるみしたのか

長男や三男と違い、小学校低学年でも読める漢字だけなので・・・

 

ともあれ

多彩な文字は自由な言論の基本と思われ、少ないほうが安・楽なだけで

何もかもリストラしてしまって良いのだろうか・・・

 

「ぬかるんでいる」という現象を、防府弁では「じるい」と主観で形容する。

単なる客観表現から脱し、自己の尺度を交え「ぬかるんで良くない」と伝える形容詞。

田畑や塩田など、ぬかるみが多かったから生まれた表現なのかもしれない。

他、堅くて水分が少なく筋っぽい食べ物には「しわい」(しうゃあ、と発音)と形容。

これも一言で、主観で筋っぽくて美味しくない、と適切に伝える言葉だ。

素材の状態、食感、食味がドッキングしている。

一言で言い切れる歯切れよさがある。

ちなみに、標準語だと思っていたが米を研いですぐに炊き始めてしまうと

ご飯に芯が残る、これを「なかごめ」と教わったが、知らない人が多いので山口弁?

米食文化ならではの表現ながら、新しい炊飯器では起こらない現象であり

キャンプでハンゴウすいさんでもやらない限り味わえなくなり、消えてしまうのか。

電動自動車ではエンストやギヤチェン、オートマも死語だ・・・関係ないけど。

 

諸外国の言葉に負けないものの、今となっては深遠なる日本語になりつつある。

その言葉、文化を常用漢字の文字数制限だけで軽々しく枠組みする姿勢に

多少なりとも違和感を否めぬのは、昭和生まれだけ?


ではまた