初めての懐かしい味

 


 

のびろたびる?

 

日本語かそれは・・・?コトブキヤのおかみさんだ。

ノビロ・・・?北の訛りが入っているに違いない。

 

あ〜ぁ、ノビル?ネギみたいの??

 

そーそーたびる?

 

うん!辛いヤツね、島らっきょと同じじゃから食べる食べる。

 

なんか全然違う地方の言葉どうしがぶつかり合って成立。

可笑しいだろうが、長男は来るべき貧乏生活?というか

フィールド生活のために、学生時代から、野草を何気なく

食卓に供する事をしてきた。

 

ノビルは初めてだが、野草としては初心者向けである。

細くて辛いラッキョウネギ・・・みたいなもんだ。

長男は図鑑っ子であるから、覚えているのは当たり前。

覚えるというよりは、なんか、頭に入れておきたいと願い

書を眺めていただけのような気がするが。

 

薬味にしてもよし、おひたしにしてもよし。

長男は、風味を活かすために、1分チンして

しょうゆを軽くふりかけておひたしに。

(噂の、ノビロ、和名ノビルだ)

水にさらさないので、風味が体に直撃するのが嬉しい。

 

こればっかしは、ガスではできない技である。

 

問題はフキノトウである。

コイツは難題だ。

苦味が好ましいのだが、食べると次に食べる他のものも

全て苦くなってしまう魔味ともいうべき、きど味の持ち主。

とりあえずあり合わせの粉カツオぶしと日本酒、しょうゆで

煮付けてみることに。

  

香りも半端ではない、春風・・・・というよりは春の嵐に相応しい。

どこかの昆虫でも食べているような、蜂のサナギにも似た

とんでもねー濃い風味のさっと煮ができがった。

 

フキっ!フキだっ!

 

くっせいし、苦くて面倒な風味である。

だが、これがなんとも雪国のパワー、遅い春のあかしだ。

味わう毎に、口の中が厄介なことになる。

それこそが、遅くとも強靭な春のパワーそのものであった。

 

実は、ありあわせの材料には

甘みを増すために、たまねぎと、先のノビルも加えてあって

はかなく甘く、複雑な風味になっている。

あまりにもフキ臭いので、たまねぎの香りは全くしないが

確かに甘い。

 

いいわー、いい。

 

口に含んで噛みしめると、苦味がしみだしてくる。

そのまま、泡盛の水割りを口に含むと、泡盛まで苦い。

これぞフキノトウ!

やたら苦い!苦さこそ、俺の春だ!と言わんばかりというか

取り付く島もないくらい

強烈に言っちゃってますよね、アンタ・・・・的な味である。

 

常識的には、かなり迷惑な味だが、仕方なく味わう春の味。

仕方ないが、妙に心があたたまる、懐かしさ。

初めてなのに、不思議と何か過去を感じる味がする。

小学校のころ、草むしりしたときにかいだ、草の香りとも似ている。

 

食べてしばらく口の中が変になるのだが

冷静に美味しくないはずなのに、

フキノトウは絶対に不味くはない、美味しくないがマズクないのだ。

口も体も嫌がるが、心は欲している、そんな感じだろうか。

妙な食べ物だなぁ。

 

以前、友人が北陸のフキノトウで

手作りのフキ味噌を作ってくれたことがあったが

あれも美味かった。

一生かかっても、あの味は長男には出せないだろう。

 

まったく妙な食べ物だ。

勝手なノスタルジーだか、感傷だか知れぬが

心が勝手に欲しがる、心地よい香りである。

 

さてどうだろう

こんな、ほろ苦い思い出深いフキノトウをいただける。

長男が、横浜でも、地代が高めな日吉に残ったのは

こういうことだ。

 

安くて華やかで、薄っぺらな売り場が嬉しい歳ではない。

じっくり品定めし、店のオジサン、オバチャンと会話し

はたまたお客さんを巻き込んで話を振ったりする。

 

美味しいものも、交渉次第で仕入れてもらえる。

なんか知らんが、鮭片身分の鮭とばが1600円で買える。

一度仕入れていたのを見つけて、リクエストし続けている。

 

保存が効くので、酒のつまみであり、蛋白源である。

 

また、魚を釣ってきたら、お酒と物々交換してくれる。

そういう小回りがきいたり、融通しあったりできる店。

全国均一とも、全てが安値でもない、楽しいカケヒキのお店が

南日吉商店街だと思う。

会話する余裕、客に応える余裕、

客も、注文が遅れても待つ余裕、そして待つ間に別の品に

チャレンジする余裕・・・そういう余裕がある空間こそ商店街。

 

全国均一で、安価で、誰もが使える、着られる、食べられる、飲める・・・

そんな誰でもどーでもいいものだけで選んでばかりで良いのだろうか?

逆に自分を安売りしているのと同じとは考えられまいか???

 

あなたの持っているケータイは、量産されたものだが

中に詰まっている思いは違う。

だから故障したからといって、買い換えるのが心残りだったり

機種変更しても、前のはどうにも捨てがたくはないか?

これこそが、買い物の醍醐味だ。

何か、その葛藤を越えられる話はないか?

何か、捨てがたい気持ちを拭い去る後押しはないか?

その答えはない、ないが、話す余裕、語る余裕、

そのケータイに込められた思い・・・他人にはつまらぬかもしぬ

でも、大切にしたいものがあるだろう。

それを語る余裕・・・ケータイショップには、全く存在しない。

 

最も身近でありながら、ポイ捨てせねばならぬ

極めて枯れ果てた存在、それがケータイとなっている。

 

そのことが、多感な小中学生や高校生に影響すると思うと

ちょっと残念な存在だなと思う。

お店も、電話も仕方ないばかりではないか。

 

商店街の味わい、信頼、温かさはそういう事に頓着する

客が少ないからこその味わいがあると感じるから

日吉に残って良かったと思う。

 

都会で暮らすこと自体が苦痛で不便を伴う長男にとって

不思議と商店街はオアシスであった。

 

フキノトウは北の産物であり、オアシスの産物なのであろう。

 

一方

商店街はタイムカプセルでもある。

何十年も前のモノや、売り方、お店が並ぶ。

洋品店ってなんだ???

お茶屋って、お茶だけで経営成り立つのか???

乾物屋はコンビニになっちまったかも知れぬが

日吉駅前にも金物屋がある。

金物屋というよりは、荒物屋になっているが

(荒物屋=ほうきや鍋、たわしなどを扱う、日常雑貨屋)

なぜ日吉駅前に金物屋が存在できるのだ???

 

そういえば

わがやも駅前になっちまった。

駅の方からやってきた感じだ。

まさか日吉本町駅が完成するまで横浜に居るとは・・・

想定外であった。

 

歳もとったもんだ・・・

 

大赤字の横浜市営地下鉄が覚悟を決めてつくった

優しい街をつくるための地下鉄だ。

 

横浜には、ホニャララヶ丘というのが多いのだが

その名の通り、山坂が案外多い。

横浜に住み着いて、よい歳を迎えた方も多かろう。

 

横浜のために税金を納めてきた方々に恩を返すのも

我々働く者の役割である。

赤字だろうが、40年かかって元が取れるかどうかだろうが

そんなの次の人間の役割だ・・・じゃなくて、未来のために

種をまき、苗を植えることが大切だ。

 

足が立たなくなって初めて、階段が非常な建造物だと

気づかされることだろう。

ちょっとした敷居の高さが、これほど高いのかと思うだろう。

 

そんな方々のために、大地を掘って道をつくっただけだ。

どんなに金をばら撒いても、動けない街など意味がない。

段差はないが山坂が多い・・・では辛かろう。

テレビ見ながら、日向ぼっこするだけが

老後・・・なんぞという街は、誰も望んではいない。

横浜は良い市長に恵まれた土地だと思う。

 

いろんな地域から、おのぼりさんとして、働き口をさがして

いろんな方々が住み着いた、いろんな知恵も、工夫もある街だ。

 

最近、アジアの連中が、怪しく暗躍し空き巣を狙うようになった。

狙う家を探して徘徊し、仲間とケータイでやりとりする姿を

よく見かける、と街の人は言う。

それでも止まらぬ空き巣地帯。

 

絆、住む人たちの結びつきが足りなさすぎるのだ。

 

こういうときこそ、島国根性を発揮して、知らぬ者を排除する

大切な力を失っているのではないだろうか。

我々が島国で生き残ってきたのは

それが守られてきたからではないか。

日本人は、いつも肝心なところで自分らの大切さを忘れてる。

 

だが、心配する事はない、忘れているだけで

必死になれば、必ず思い出す。

今はまだ、危機感が足りないだけで、心底忘てはいない。

 

まーしかし、危機感が足りたときって、そーとー怖いよ。

どんなに荒んだ日吉本町になっていようことか・・・

 

それでも

果物がオマケつきか、自動値引き価格で買えるとか

魚とお酒が物々交換できるとか、自動的に地域産物が

手に入るなどという、心温まる南日吉商店街。

ここが駅前となって良かったと思う。

ここに住んで良かったと思う。

 

下町風情とか、名物なんとか店なんて無くていい。

ほんのり温かい人情が息づいている。

なーんていうとワザとらしいが、しかしその通りだ。

何の特徴も無い、しかし、どこの商店街であっても

他にない存在であることは確かである。

 

いろんな人がやってきて、そこに住まっていた人と交わり

新たな街をつくっていく。

 

その中で温もりが残るお店が並ぶところ

それが商店街だ。

やたら安っぽい商品が、不躾なバイトたちによって、

買い物する人をさえぎって無作法に並べられる量販店ではない。

苦労し、悩み、量販店に流れる心まで安くなった人らを

何とか止めようとする商店街の方々の姿は、かつての里の姿だ。

 

まだまだ、

無理しても日本の商店街であり続けようとする商店街へ、

今日もまた、買い物に行こっと。


ではまた