長男の妙な情熱を超える熱い夏!

今年も一段と

変ん゛!


変ん゛!が発音できる人は幸いである。

演歌が歌える、腹から声を出し、鼻の奥でくぐもらせ

うなる感じで発音する

あん゛こぉぉぉぉ、だよりいわぁぁぁぁ〜

同等の発音技術による。

なぜだよりいわぁぁぁぁ〜の方かというのはアンコ椿は恋の花を

歌いこむと、「ん゛」の新鮮さが分かると思う。

あくまでも枯れてはいかんのだ。

日本の情熱にはやっぱり演歌だ、はるみだ。

 

ただし

今回の話題もタイトルとか、前フリとは関係ない気味に進む。

演歌好きの表現というわけでなく

毎年お世話になりっぱなしの、伊豆大島好きだから・・・

と改めて断らせていただく。

 

問題は演歌か、大島かということではない。

 

全く無縁の、それはもう、それらは心底どうでもいぃ〜、

生活周辺事情が問題ばらみである、ということだ。

 

横浜我が家は夏だというのに、虫が居ない。

街灯に虫が全く居ない、夜明けだというのに

遠く山から細くヒヨドリの声は聞こえるが

スズメの声も、シジュウカラの声も聞こえない。

あまつさえ、ツバメも居ない。

 

更にあまつさえ、カラスさえも見なくなった。

 

今年の森では、どんぐりが散り始めているらしい。

熟す前に散り始めているらしい。

 

せっかく実ったのに、また熊が、サルが

また里山超えて街へやってくるではないか!

 

もう何が起きても驚かん。

てゆーか、いちいち驚いているヒマがあったら生き残る策を

鳥よりも虫よりも自由な発想で考えるのがニンゲンだろう。

糞にたかるハエのように大地を奪い合う人間・・・と

ミック・ダンディーが言っていたが

住みやすさこそ価値なのだから、それが失われたら

縛られる理由も住む理由もない。

むしろ、侵略してでも住みやすい土地へ行くのが

生き物のありかたというものだ。

 

先日、テレビを見ていたら、徳島は吉野川の干潟は

自然が豊かで、野鳥の国際空港でもある・・・と述べておられた。

 

日本人がよほど戦わず、言葉の通じるエリアか

ちょっとその先の島までしか手を出さずに来た消極性が

顕現している。

侵略が正しいというのではなく、可能性の追求が

閉ざされたままであっても、正しいと思える環境が

たまたまあったということだ。

 

日本海も太平洋もオホーツク海も、東シナ海も

海が我々を守り、我々をはばみ、我々を養ってくれていた。

だが、その限界が来るとき、生活を、考え方の根底を

変えねばならない。

 

鳥は国際化など関係ない。

そんな小さな区切りを作ったのは、ただのニンゲン。

 

確かに、こんな面倒な世の中でなかったら

長男は「してやられたわい、やるなオバチャン」と

なかなかの言い回しに、ほのぼの見ていられたろう。

 

だが反面、徳島干潟オバチャンは

ニンゲンの小ささをあえて宣言しているのかもしれぬ。

 

ともあれ

写真もなし、アップは遅すぎる、内容はこれっぽっち

実は今、長男もちょっとスランプなのかもしれない。

それとも脳みそも体の一部、全身夏バテか?

 

でも、スランプのときはジタバタ、あれこれ考える

そしたら、いつしかきっとまた次の舞台が現れるに違いない。

 

お、そうそう、勢いジタバタして釣りに行ってしまったが

徳之島で9月(ってもうアップが遅れて今月になっているけど)に

写真展をやってもらうんだった・・・

はやいところ、写真現像しないと。


ではまた