ヘッピリクツな論客あらわる

 


最近、どういうわけか自殺が報じられる度に自殺が増える。

先日の北方の大地震報道の時ですらも

都内の鉄道で人身事故のテロップがあった。

 

季節の変わり目は、日の長さも、寒さもいっそう変化して感じられ

意味なく憂鬱な不安にさいなまされる向きには、キツイ時節である。

 

かくいう私も毎日

「もうやることはオオムネやったので、

 こうして無闇に不安な毎日を過ごすより、早く逝きたいなあ・・・

 しかし待て!、逝くなら全て投げ出して、断然撮りたい写真を撮ってから」

といった妙な自律的最終願望を抱きながら、日々の通勤を歩かねばならず

歳を経る度にこの季節が辛くなる長男であった。

 

ま、こうして辛さが分かるうちは、まったく余裕があるということだろうが。

 

薬をやめてから、こうしてやっぱり不安が舞い戻り

何もないのに人と接したり話すのが恐怖に感じられるようになってきた。

こんなに簡単に戻ってしまうとは驚きでもあり、想定もしていたが

やっぱり分かっていても制御できない「絶対不安」のような

ドロリとしたものが心をおおい尽くし、更に不眠が追い討ちをかける

そんな秋晴れの毎日をすごすことになった。

 

つくづく

心の治療はしっかりじっくり、突然やめたりしないで続ける事を

おすすめしたい。

 

さて

その朝はそんなドロドロした心が、一段とネバリ強い朝であった。

しこたま現実逃避というか、自己逃避というか

全ての事柄かもから脱出したい・・・そんな気分にひたるうち

ふと「時間の流れとは何だろう」と思った。

津波のように押し寄せる不安に対する、逆切れかもしれない。

僕の場合、不安にさいなまされるときは、クヨクヨ度の記録更新の時。

つまりは、何かひとつ別世界の事を考え始めると思考がクロックアップして

すさまじい勢いで回り始める。

 

こんな具合だ。

 

「時間は流れる」、流れるというのはただ単にもののたとえであり

言葉遊びのようなものだが、これに類する現象としてエントロピーが

心当たっていた。

物事全ては確実に拡散へ向かうというのだ。

おもちゃ箱をひっくりかえすように・・・だろうか。

あるいは米袋をぶっちゃけたような感じだろうか。

 

しかし、素朴な疑問もある。

であれば、ダイヤモンドのような結晶体はエントロピーの

逆行現象ではなかろうか?

エネルギー資源にしても、なぜか集まっている。

これは何らかの事柄が「低い」場所に集まったのだろうか?

一方、そういうものが、おおむね何らかのエネルギー資源にも思える。

 

時間とは、見方によっては相対的であるというし・・・

エントロピーは戻らないこぼれた水の様でもあり・・・

でも戻せるのでは???

などと不毛な思考を遊んでしまっていた。

 

そしてその夜、たまたま本屋に立ち寄ってみた。

寝不足解消に、睡眠薬代わりの本はなかろうか・・・と。

 

見つけてしまった、Newton・・・しかも・・・

「インフレーション宇宙論」である。

インフレーションに関しては多少小耳にはさんだことがある。

宇宙はビッグバンのころに強烈に膨張したという話だった。

 

この特集には、ビッグバン以前とあり、ふつふつと向学心というか

へっぴりくつ論客魂とでもいおうか、知りたい、考えたい思いが

わきおこり、眠れるか否かは問題から消えて、レジへ向かっていた。

 

思ったとおり、寝るどころではなかったが

面白いことを考えていた。

 

そうかぁ、この理論ではビッグバンの前があるのか。

我々の知る「この世」というか「この次元」に素粒子と反素粒子の

どちらもが生まれ、その消える瞬間に揺らぎがあって

粒子と反粒子が別々になり、宇宙の素となっていく。

微小で些細な宇宙の素となる素粒子空間(空間と呼べる広さか不明)

があって、その中で素粒子がぶつかり合い

光すら、その狭さゆえに直進できないほどの密度となったという。

 

そのエネルギーが爆発的に、否、爆発よりすさまじいエネルギーで

その微小空間を押し広げた、というのはなんとなくイメージできる。

素粒子だから、原子や中性子はおろか陽子もなかっただろうから

ブラックホールとは逆に、重い粒子の集まりではないはず。

重力の墓場となることはなく、ただただ、超高密度のプラズマ状態?

みたいだろうと想像した。

 

ここからが、更に面白かった。

朝方考えていた時間が「相対的」という解に近い事柄が論じてあった。

この空間が広がったときに現在の我々が考えている「真空」も

広がったというのだ。

実は我々の言う真空は、ある「何か」が満たされているために

粒子が加速できないネバリがあるというのだ。

 

ビッグバン以前は、光速は光だけのものでもなかったらしいし

光速という制限もなかったようだ。

 

ここからはある程度、更に想像だが、

つまり、現在の宇宙に素粒子と「真空と呼ばれる何か」が

光速以上で、しかも一秒より遥かに短い瞬間、爆発的に

広がったということから、我々が知りうる素粒子や光子より

更に微細な?あるいは抵抗力のみの存在?も生み出されたか

飛び散ったことで、物質に速度限界ができてしまった。

音が空気中では340mくらいしか進めないのと同じだ。

 

物質が減速するとき、摩擦熱が出る。

これがビッグバンだろうなぁ・・・と思い至った。

 

本来?なのか、真空以前の空間では、光の制限速度も

いかなる素粒子も時の流れとはほぼ関係なく

何らかのきっかけがあれば、何の抵抗もないために

我々の考えの及ばぬ勢いで弾き飛ばされたようだ。

つまり、光速の限界がないということは、時間の概念も揺らぐ。

一秒の何百億分の一秒といったところで、多分時間の概念の

およばない空間だったろうから、その議論は微妙だと思う。

 

僕の想像では「時間」は、この「ネバる真空」で抵抗が生まれ

光速以下に減速したものが生み出す、何らかの減速による

副産物ではないだろうか。

重力(質量)が生まれたということも同義で、ネバりで抵抗が

生まれたときに「重さ」が発生したと考える。

また、このネバリはだんだんに固体に近いイメージに

どんどんネバリ強くなっていくらしく、だとすると時間も

これまで以上に経過が早くなるというか、あらゆることに

時間が発生してくるのである。

真空が固まっていき、その抵抗として時間が生まれる。

真空が相転移する(気体→液体→固体のような現象)という。

 

我々は「時間」が絶対と思っているが、空気や坂道に

一切の抵抗がなければ009の「加速そお〜ぅち」みたいに

移動できるのだ。

血液もメチャクチャ高速にめぐり、何をするにも重さがないので

何一つしんどくないわけだ。

年をとる前に何でも一瞬で考え、こなせてしまう。

したがって、何をやるにも時間が今ほど全く必要なくなるのだ。

時間生じるのは「遅くさせている何か」があるからである。

これが「ネバリのある真空」が原点と考えられるのだ。

 

う〜む、収拾がつかないが、考えは進む。

 

時間は「ネバリのある真空」が原因していると仮定すると

(光も抵抗を受けている可能性もあるかもしれないが)

現段階では光速で移動できれば、歳はとらないというから

光が失われない、消滅しないで直進?し続ける

というのも、時間がたたない組成を持つからうなずける。

また、光こそ、ビッグバン時代の生き残りであり

ビッグバン以前の名残を留める唯一の存在なのかもしれぬ。

 

「光」は波の特性も持っていることから「直進」とは言いがたいが

波ができて伝播するということは、そこに媒介する「真空」があるから

と言えなくもないと思う。

実は真空には光を伝える組成があるのではないか。

でなければ、インフレーションする以前に光が逃げていってしまう。

光も素粒子も出られない制限があったから、インフレーションが

起こせたといえなくもないような・・・へりくつのような・・・

 

だが「真空の宇宙」以前の「場」は何だったのだろうか。

宇宙の地平があって、光も出られない「場」が時間とも空間とも

無縁の何かが「存在」?するのだろうか。

果たしてそれが存在と呼べるか、一見我々が使う、ゼロに似た

エネルギー的にも全く何も存在できない「無」があるのだろうか。

 

まあ人類のこの先の歴史全てを使っても、多分行けもしない

場所のことを考えるのは、あんまり意味がなさそうだ。

 

だが待てよ、この「無の場」を人工的に作ることができれば

人も物質も無限の速度で移動できることになる。

SF的で夢があるではないか。

 

我々が言う、戻らない「時間」は多分やっぱりこの「場」でも

逆には行かないで、ただ、先に入っても出るのが必ず先とは

限らない、というだけだろう。

つまり出られないほど、何億年もの浦島太郎になるのも

まんざらではないお話になってしまう恐怖の「場」でもありそう。

 

光の速度以上で進んでしまうと、本人は時間がたたないので

現在の我々の技術レベルでは制御できない。

何らかのゲートなり、網?なりがあって受け止めて

減速してくれないと駄目だろうなぁ・・・

じゃあ、さながら「どこでもドア」だとボコッとドアにぶつかって

減速してもらう、かなり痛ましい装置ということになるよなぁ・・・

それに、光速未満で送り出して設置しておかないと

受け手が居ないまま、どこにも行けないから準備が大変だぞ。

 

思いは際限なく無意味に連想を重ねて、果てなく広がる。

 

我々の体も、素粒子からできている。

燃やすと光になり、熱になるかプラズマになる。

物質全てが波の組成を引き継いでいるようにも思えるし

原子も原子核のまわりを電子が回り、なのに硬いというか

触れることのできる物質と感じられる。

じゃあ、この電子と原子の隙間は何があるんだ?

 

我々の体にも、実は謎の「場」が存在している。

電子が回り続けられるのも「真空に思える何か」が

ネバリだけでなく素粒子間を埋めているのかもしれない。

 

宇宙を考えるとき、多分身近にも類似した事柄が存在し

そこから導き出される答えが、実は宇宙の理(ことわり)だったり

してしまうから、理論とは面白いのだろう。

 

しかし、全てが相対的であり、揺らいでいるという事柄は

なんともやりきれないような、気楽なような。

物質でも存在でもない、なにやら「微妙なもん」である。

 

まだ、インフレーションが起こる前にあった、微細な宇宙の素の

意味も、なぜ微細だったのに、インフレーションできたのかも

理解できていない。

時間も空間もあいまいだった「この世」に大きさの概念が

通用するかもまた「微妙なもん」のようにも思う。

 

もう少し読みふけって、思いふけって、へりくつの暴走を続けよう

そうすれば、もっと「微妙なもん」が今までの微妙さを

払拭してくれるだろう、相対的に・・・


ではまた