ぼっちの生活?

 


 

社会の淀み

 

阪神淡路から26年も経った。 やがて、東日本大震災から10年になる。

 

気まぐれドナルドが 「ダンガイオーに、俺はなる!」 を実現した。

なんであんな人が大統領になれたんだ? を聞いて、あわや鼻からスパゲッティ惨事

になりかけたが・・ おのれがゆ〜のかよっ! と、ツッコミドコロの宝庫だった

もとより、情報操作によって民主主義の土台を覆して成った大統領だから、馴染みだろう。

結局のところ、こらえ性の無さから、自ら民主主義を否定する発言により墓穴を掘った。

だが・・・ おそらくバイデン氏も情報操作戦で勝ったような印象も否めないところ。

世界最強の軍隊を有する国の長を、情報でもてあそぶのは、いかなる勢力なのか・・・

気になって仕方がない。 現代は、武器でなくても国を亡ぼすことはできる。

あれ? 気まぐれドナルドってば、権力は振りかざしていたけど、政治ってナニしたん?

 

WHOの武漢入りが、ど〜も怪しい。 もとより中共は、武漢コロナウィルス製造元である。

中共の同志?を使って、人為的に感染者を増やすことは、まったく難しいことではない。

どこまでヤルのが、注視のしどころだ。 あまつさえ、ワクチン外交と来ている。

ばらまいて、ワクチン・・ わかりきった策とは謂え、あらためて中共は徹底している。

 

ど〜でもい〜んだが・・・ 無策な野党が、コロナ対策が遅すぎるとツッコミ風の振舞い。

いつもながら、鼻から茶漬けを吹き出してしまう。

早ければ経済の不振、遅ければコロナ対応への遅れと、韓国政府なみの単純な話法。

中学の学級会レベルで国会を遅延させ、どんだけ給金をボッタクルのか・・ ヤレヤレ

 


 

とりあえず、ぼやく。

 

久しぶりに、カップヌードルを食べた。

私はインスタントラーメンは苦手だが、カップヌードルは不思議と嫌ではない。

貧乏くささが薄いから・・・ かもしれない。 ナンというか、パチモンっぽさがない。

 

規定量の湯で、こさえてみたところ、驚くほど塩っぱかったのは、予想内。

ただ、食べ進むうちに、もっと塩っぱく感じられたのは、予想外だった。

カップ麺の仕舞いに、カユを加えてシャバシャバッといただくんだが、そちらはイケた。

さすが味噌味。 おむすびに合うカップ麺ナンバーワンは、ダテじゃないらしい。

謎肉やキャベツにコーン、完成度は高い。 が・・ もいっぺん食べる気にはなってない。

トムヤムクンヌードルほどの、圧倒的な完成度、存在感ではないんだろう。

 

そういえば、私はAコープで買い物するとき、ちょくちょくレジで値段の間違いを指摘する。

読者諸氏は、そのようなことをしたことがあるか???

私は値踏みして買うので、値差があると気づくワケだが、とにかく高い方にブレている。

おそらくスーパー業界にアルアルなのか、農協アルアルなのか、意図的にやっている感。

値付けと決済に差があれば、当然それは詐欺行為なのだが、シマッチュは気づかない。

レジ打ちしないから、必ず正確だと思い込んでいるからだが、そこが盲点となった結果だ。

つまり、ヤリ放題、ヤラレ放題なのだった。

 


 

「ぼっち活」と謂うコトバを耳にした。 さらに「ソロ活のプロ」とやらも居るらしい。

学生時代までは、孤独を愛するなんて、ただのコトバ遊びだと信じていたが、今や違う。

因果はさておき、ワザワザ自称するほどのことでもないと思うんが・・・ 今や違うのか。

 

何かしようと思いついたとき、誰彼心配りする必要がないから、実に身軽だ。

やめられようハズもない。

 

仕事以外で、誰かと一緒にナニかする・・ のは、とてもとてもとても面倒だと思う。

いやも〜、面倒と思うこと自体が煩わしくて仕方ない。

 

たまに、私の心情は、壊れているのかもしれない・・・・ と思い当たることがある。

寂しさは皆無ではないように思うが、それ自体好きではない。 不自由だからだ。

寂しいことを好きでないと表現するのは、たぶん普通ではないんだろうと想像できるが

寂しさの穴を埋めるために、人と付き合うなど、意味は分かるが、理解し辛い現象だ。

いや、それが本能の働きだったとしたら、私にはほとんど効いていない・・・

何かしようとして、本題以外の何かを考慮することは、実に無駄が多いと感じる。

サラリーマンを辞めてから、その感じ方は一方的に強くなってしまった、とも感じる。

ただただ漠然と、マズイかもしれない・・ と一瞬思うこともある。

いや、重病やら老後?は、必ずマズイコトになると思うんだが、都合が悪いだけで

人と交わりたい気持ちからではない。

けして、人間嫌いではないと思うし、たぶん、イイトシして人見知りなんだと思う。

感受性が十代のままだ・・・ と感じることも少なからず。

しかしながら、人見知りと、寂しさを感じないのとは、根源が異なる現象だと思う。

 

この冬も、クジラがやってきた。 ザトウクジラで、母8m、子4mくらいか。

子育て中の母クジラの尾だ。 謂わば、クジラ妻の生尻の一部、先っちょである。

どうやったら、カバの尾のようなものが、このようにたくましくも美しい板状になるのか・・・

進化の不思議と謂うか、進化そのものが意図的と謂うか、怪しい気もするこのごろだ。

この世が、イマイチ出来のよくない造り物のように感じることはママあるが、

クジラ類の尾は、いきなり完成度高すぎだろ・・ と思うことしきり。 昆虫の翅よろしく。

 

見かけた場所は、代表的な観光地「犬の門蓋」(インノジョウフタ)で、パラパラ客もいた。

だが、誰一人クジラには気づいておらず、もったいないやら、かわいそうやら。

やはり、ガイドが付いた方が、幸せることもありそうだな・・・

 

小さな目標が見つかった。 カンムリカイツブリの瞳の撮影である。

冬羽は地味で、イマイチだと思っていたが、瞳の内に金の輪があるのに気付いた。

こんなに美しいデザインの瞳は、見たことがない。 いや違う、見ていたが知らなかった。

夏羽では、目の色まで変わってしまい見られなくなるから、冬羽限定の金環だ。

なかなか寄ることはできないから、いつかは撮りたいと願うことができる。

 

島に来てからずっと、鳥と向き合う? 一方的にジロジロ観察する時間が多かったから

鳥には情動も、個性もあることが分かっている。

このシロハラは、秋にやってきて、運動公園で越冬している個体である。

 

ニンゲンとの距離感をわきまえると謂う、珍しい個性を持っている。

妙な動きさえしなければ、警戒は欠かさぬが、無駄に採餌を中断して逃げたりしない。

ツグミ類は、警戒心と謂うか、ニンゲンとの距離を重んじるようで、一定の距離が詰まると

無判断に?逃げる習性があるように思うが、この個体は合理的だ。

 

だからとて、ずっとレンズを向け続けることは、警戒心の積み重ねには違いなく

結局はエネルギーの無駄づかいになるから、いづれ逃げてしまうことになる。

そこそこ撮影したら、ありがと、と声をかけて立ち去ることにしている。

 

声を出す、声をかけるのは、実は肝心なことで、こちらに敵意や警戒心がないことを

伝えることができる有効な手段だ。 言葉は通じなくても、こちらの情況は通じる。

鳥類は、人類ほど脳を発達させていないものの、声によって情報を得る知能は高い。

鳥類も人類も、共通の祖先から進化し、同じ時間だけ進化してきたから、バカではない。

しかも、人類よりクロック?が速く、時間を何倍に引き伸ばして感じているから、なおさら。

 

カンムリカイツブリにも、わきまえた個性の個体も居るだろうし、元よりさしてニンゲンを

恐れない性質だから、チャンスはいづれ訪れてくれるハズなのだ。

ただ、渡来数はわずかだから、可能性はカナリ低めで・・・ そこが、なお愉しみ。

チャンスが訪れたとき、私は冷静に対応できるのか、否か・・・・・ とか。(笑)

 


 

私の独り生活は、独り言と自問自答の連鎖でもある。

自分と謂う現象を、一瞬たりともすかさず、舵取りする日々。 常に私中心の自由な日々。

自分しかいない、白く自由な日々でもない。 バランス(勝手)な、薄い灰色の日々だ。

 

私は感じている。

キチンと所帯を持って暮らしているオトナの人らは、かなり濃いめの灰色の日々を送る。

コイやフナのように、濁った水を好むようになる感じ・・ に似ていると。

しかし、私は神経が細いままで、四六時中 白い方へなびき勝ちで、無理なのだ・・ とも。

諦めたつもりはない、と思い込んだつもりで、諦め過ぎていたかもなぁ・・ とも。

 

12年あまり前、いったん逃げることを選んだ。

爾来、逃げ続けてきたワケだが、逃げが諦めとは思わなかったからだ。

当然、逃げは強さにつながらない事も、痛感してきた。

だがしかし、鳥たちを長らく眺めてきた手前、強さとは違う生存への強かさを、感じてきた。

 

現時点では、それらを誰かに伝えるのが、私なりの役割かもしれないと思いつつある。

単にたくましいワケでない、狡猾で恥知らずであっても、生き残りこそが正義。

 

結果だけが全てでは無く、今が最も大切なわりに・・ 結果が出ねば、評価されぬ事実。

この世は、左傾化した日本教育で習うのより、ずっと無慈悲で厳しいのも事実。

 

生き物たちは、ニンゲンよりずっと実直だ。

 

大切なのは、事実も真実も似たような場合もあるが、ゼンゼン同じでない場合も多い。

 

事実を真実(一方的な事実)のみで覆い隠すのはダメだが、有利にする真実は大事だ。

奄美を闇に葬り、沖縄戦を美化してきた、我が国のヤリカタのようなもの、についてだ。

他方で、事実と、客観性のない真実を踏み違えるのも、オトナではない。

 

分別をわきまえるのには、ニンゲン以外の、明確な地球なりの尺度も、知りたまえ。

ニンゲンは半端に身勝手だが、生き物たちは実質的で真っ直ぐに勝手を演じ切っている。

 

生物学の分野は、意外にも? 今もって、〇〇伝説のようなのが横行している。

もともと地味な分野であり、思い込みが激しかったり、モテなかったりする人物が研究し

観察の方向性が意図的だったり、偏執的だったからだ。

女子へろくなアピールしたことがない人物に、オスどうしの牽制と、メスへの求愛の差が

判りゃしなかったのだ。(笑)

強さをアピールしておけば、メスへの求愛にもなる・・・ モテないヤツの考えそのもの。

ニンゲンだけが情緒豊かで、繊細なワケないだろうに。

 

どこを発達させるかの差はあるが、全ての生物は、同じ時間をかけて進化してきた。

そこを忘れ、バカになったのは、逆にモテない学者たちではなかろうか。

 

同様に、求愛と愛情の確認についても誤認がアリアリである。

繁殖地で、そのまえから出逢ってるのに、ワザワザ求愛するワケないじゃん・・・ (笑)

生殖行動についての、偏執とゆ〜か、美化とゆ〜か、稚拙な知見モドキが多い。

 

その証左が、例えばタンチョウヅルの求愛ダンスである。 アレは全く、求愛じゃないよ。

ニンゲンは奥ゆかしいと思ってしまい、日常的に愛を確認するのはコトバかチューだけれど、

細かい意志が伝わらない鳥たちは、舞い踊り、全身で表現することで、互いに確認しつつ、

横やり、横恋慕を防ぐアピールにもなるのだ。 そんくらい分かれよ・・・・・・

 

もちろん、求愛、愛の確認といった区切りそのものが、曖昧なのは謂うまでもない。

基本的に、私たちニンゲンの価値観を、当てはめて過ぎてはダメなのは確かだ。

そして、もっとも繁殖に対して弱い立場の人物が、あまりにも学者には多すぎる現実・・・・

 

ぼっち ≒ ヒトリモンの私が謂うのもビミョ〜だが。(笑)

 

それはそうと

人妻が私を見つけると、ツルみたいなのを見かけたとか、ツルは来てないの?とゆ〜のは

ナンか連想しているとしか思えんのだが・・・・ どうなん???

マスクしてても、私の特徴は全く失われないところが、イイようなビミョ〜なような・・・・・・

 


ではまた