島の梅雨生活 ア ラ カルト

 


 

雰囲気だけの 報道

 

このごろ不謹慎になっている。 中国南部に豪雨が続いていて・・・ ついつい三峡ダムが

決壊したニュースがないものかと、毎朝期待してしまうのだ。

決壊したら最後、東シナ海や日本海西部は、長江の泥土とゴミで死の海になるだろう。

当然、中国全体に影響が出るだろう。

北の武漢コロナ、南の豪雨、身から出た錆びなんだが・・・

 

アメリカの武漢コロナ感染もすさまじいが、東京も微妙に収まりそうにない。

アーイエバコーユー朝鮮者、あるいは左傾報道機関は、たちまち東京アラートをイジる。

締め付けても、緩めても、効果に疑問・・・なんて報じられるんだから、簡単でイイよなぁ。

そんなんで給料がもらえるんなら、ワシもあやかりたいもんだ。(笑)

効果のあるなしは、仕組みの問題でなく、単にニンゲンの用心加減なんだが・・・

病を憎んで人を憎まずでは、感染症は防げないと思うぞ。

尖閣諸島を、たかがペンだの舌先三寸ごときでは守られないのと同じように。

無意味な妄想を、理想とカンチガイしている連中が多すぎて困るなぁ。

 


 

ところで

週末日曜の夕、金環日食のタイミングで・・・雨降りだった。

しかしながら、暗くも涼しくもならず、ホンマに日食したのか怪しいくらいフツーだった。

前の日食の時とは大違いだ。 まるで、事象の計算をサボったような、夕だった。

 


 

ふと

焼きそば と 焼きめし ずいぶん違うなぁ・・・と思って、ソース味の焼きめしをこさえた。

下卑た味だが、フツーにイケる。 余っていた粉末ソースを用いたのだ。

これでオムライスをやれば、オムそば同様、B級グルメでは人気を博すると思うんだが。

オムライスやオムそばを超えるネーミングは、悩ましいが・・・(笑)

オムめし? もう、とっくにありそうだ。

 


 

今朝は好天になったが、東風に戻ってしまったから、浜へ行っても時化ている。

大物には、やはりリアルミノーが有効だろうと、信じて止まない。

トリトリデッキまわりのイノーで、荒磯同様に真面目に釣ることにしたのは初めてだ。

ダブルフックに交換してみたものの、バランスが悪いので、すぐに純正に戻した。(汗)

 

きのう、竿を出しているときに見かけた、ほぼメータークラスのオニヒラアジが原因なのだ。

オニヒラアジで、そこまでデカいのを見たことはなかったから、火が付くのも当然である。

大きいヒラアジは、とかくメスであり、これからが繁殖期だから食いが荒くなる。

 

その後60センチオーバーのオニヒラアジが、クネクネするルアーにまとわりついたが

食らいつくには、ナニかが足りないらしかった。

コンディションの良いメスほど早く産卵するので、早めの大潮で釣りたいものだ。

 

青の読者諸氏なら、これで本気度が判っていただけるだろう。

イノーのような浅場で、ギャフを用意することになろうとは思わなかった。

コレで4キロより軽いヤツの取り込みが、とても困難になってしまうので、事実上切り捨て。

メーター吸がルアーを食らっている以上、タモ網だとルアーが網に掛かり、入らないのだ。

 

ちなみに

このギャフは私の設計で、オヤジ殿に制作してもらったステンレス製・オリジナルである。

掛けやすく抜けにくい、開いた先端と、逃れられ難く重心を玉の柄の軸線上に据えた形状。

玉の柄は、ネジ部が母島のヒレナガカンパチで破損したので、強化して復活させたものだ。

バブル時代の良品、ダイワ・ウィスカートーナメントは、だらだらと垂れない強靭さで、

さらに、マルチレングス仕様だから、5mと6mを調整できるので、ガザミ捕りにも重宝する。

 

リトルジャックのゴーゴン125への反応は微妙で、60センチ以上だと反応し始めるようで

50センチくらいだと、サッパリ反応しない。

ルアーへの反応も二通りあり 嫌って逃げる / 気にせずスルー で、ゴーゴンは後者。

然るに、対象未満のオニヒラアジにも、悪影響は与えていないのが嬉しいところ。

小ぶり?なオニヒラアジにとって、スルーすべき小魚か、漂流物のような扱いである。

 

んま゛〜 脈はあるんだが、タイトルにも反映されていないが如く、まだ釣れてない・・・

 


 

いつものように、トリトリデッキ下の干潟でシオマネキを眺めていたら、毛色の違うのが。

なんと! ルリマダラシオマネキである。

ここらで見られるハズはないんだが・・・ 何らかの原因で、暴走してしまったらしい。

800メートルくらい北に行くといるので、ひたすら歩いてきたのだろうが、

食うや食わずで行進しつづけているから、そのうちエネルギー切れで死ぬしかない。

 

写真は所詮、最初からご遺影みたいなものだが、こうして生きている姿を記録しておけるのは

撮影者の喜びときているから、つくづく妙な嗜好だよなぁ。

 


 

南西諸島で、たぶん留鳥化の先駆けとなるムクドリたちが絶好調で、幼鳥や親鳥が集まり

50羽あまりの群れになって飛びまわる。

<<<ムクドリ幼鳥

よほど身近でもなければ、観察されることはない不人気な野鳥である。

たまたま? わが家の近所で繁殖していて、年がら年中 眺めることができている。

 

内地ではアタリマエに見られるムクドリだが、正直なところ繁殖しているのは見たことがなく

なんで島に来てから、眺めることになったのやら。

  

このところ

渡り鳥の動きもあった。

珍鳥のハシブトアジサシをはじめ、とかく放浪するクロハラアジサシやハジロクロハラアジサシ、

戻り?かどうか判らないがキアシシギやアオアシシギ、オオメダイチドリなども干潟に現れた。

島で、本格的に戻りが始まるのは7月下旬になってからだが、上旬から渡りが始まってくる。

ここ2年ほどだろうか、6月末ごろに戻ってくるようになっている。

世間的な常識より、一月以上早いが・・・ ただ単に、定点を毎年毎日見ていれば判ることだ。

 

田舎に住むものは自然に興味がなく、都会に住む者はヒマがない。

ヒマと謂うか、ナニに重きを置くか・・・ナニが大切なのか・・・資本主権の世には疑問だらけ。

 


 

もはや半世紀も前になる、私の記憶のもっとも古い場所を、ストリートビューでたどってみた。

下新前町、この橋は個人宅にかかっていて、おそらく私にとって最初の友達?トモちゃんの家。

橋の左にあったはずの母屋は消滅しており、わが家のあった方面が見えている。

なにやら工事中らしき、スクリーンが見えている。

ちなみに、トモちゃんは同い年の男子で、ちっとも仲は良くなかった。(笑)

背は伸びなかったが、高校で生徒会長をするほど、とても人望の厚いヤツになったらしい。

 

その向こう(画面では中央左寄り)はキシノさんで、年上ながら姉妹の末娘にホレていたハズだが、

そのお姉さんのシマちゃんしか名を覚えていないとは、なんとしたことか・・・

 

左の道路は、最初はまだ舗装されていなかったんだ。 そして奥にある二本目の橋のまわりで、

ショックン/食用ガエルのデカいオタマジャクシを捕らえては、天ぷらと称して、橋のわきにたまる

パフパフの砂をまぶしたり、護岸へたたきつけたりと、虐待の限りを尽くし、遊んだものだった。

私は今でこそMだが、当時はドS、動物虐待っ子であった。

 

そこから数十メートル北、ナゾのオッサンが住んでいた場所は、誰も住んでいなかった。

母は〇〇さんと教えてくれたが、その名をスッカリ忘れてしまった。

もう上水道はすっかり整備されていたが、なぜかオッサンが井戸を使っていた。

そのポンプだけが残っている。

ナゾのオッサンは、いつも同じ服を着ていて、ここにあった木造家屋に住んでいた。

イロイロうわさがあり、子供ながらにチャカしたりしていたが、礼儀はわきまえている人だった。

土地が売れないということは、あのオッサンが変死でもしたのだろうか???

 

この奥らへんに、ジュンヤくんの家があったとお思う。

自由な幼稚園児だった私は、朝も昼からも超道草を愉しむ派で、夕方まで帰らないこともあり

ジュンヤくんのお母さんは、あまりに心配し過ぎてノイローゼになってしまった・・・

 

ここは、弟が最悪の思い出を背負った場所である。

トタン小屋の右にある四角いナニかのあたりに、タンコツボがあったのだ。

タンコツボとは、人の糞尿を発酵させて分解し、肥料にする深い井戸のようなものだった。

タンコツボには、適当な屋根があるものと、ココのようにないところがあった。

ないタンコツボは、表面のウンコが乾いて、一見地面風なのだが、弟はそこへ踏み入れた。

卒然弟が消えてしまい、気づいたときは、弟の手首から先だけが見えていたのを思い出す。

ちゃんとした道路になり、周辺に住宅もあるが、当時は細い不整地道と、田んぼだけだった。

 

不思議な空き地が残されていた。

小学中学年のころ、中島さんという姉妹がカワイイ同級生がおり、塩田跡で遊んだものだ。(笑)

私は幼少のころからずっと、姉妹ごと好きになってしまう超絶・惚れっぽいヤツなのだ!!!

 

塩田跡は、地盤に粘土を敷き詰めてあって、満潮になると、水路にはヒタヒタと潮が満ちていた。

水路以外のところにはガマが生えて、その向こうには塩を焼くための煙突が何本か残っていて、

さらにその向こうには、新たな干拓地と工場が出來、高度成長期にあって江戸時代と現代が

交錯する、不思議な遊び場だったのを覚えている。

先が丸まった、レンガ造りの煙突は独特で、結構好きだった。

特殊で危険な施設があちこちに残っていて、後述のヒデちゃんの父さんが、潮を汲みに行って

亡くなってしまったことがあった。

 

まわりにはマツダの工場ができたりしたから、とっくに工場になったんだろうと思ったが、

なぜか丸々残されている。 あの煙突は早々に撤去されたようだが。

長州藩にあって、三田尻の塩田は、薩摩藩の奄美プランテーション同様の稼ぎ頭だったから、

残されたのか・・・ あるいは、先のオッサンの敷地同様、ナニかあるから残ってしまったか・・・

 

そして、もっとも古くて鮮明な記憶が残る場所が、えんしん幼稚園。

先の、オタマジャクシ虐待の川の延長にあって、入口はやはり橋になっているのが特徴。

このアングルは、当時のバスみちから。 昔は太いと思ったバスみちだが、今では街路だ。

確か、マツバラから通われていた、ヒラタ先生が最初だったと思う。

右手には石碑があるが・・・ こんなん、ありゃせんかったような。

幼稚園の裏側に運動場があるんだけども、その向こう側は華陽保育園になっていって

共通の運動場だった気がする。

 

ここから少し東へ行くと、同級生の福田ヒデちゃんの家があるんだが、今は石屋でないらしい。

弟のミツくんは結婚したらしいが、ヒデちゃんはモテたわりに、結婚していないようだから、

ヒノエウマは、呪われた世代なのかもしれないなぁ。(笑)

 

そして防府最後の思い出の場所が、華陽中学校だ。

さっきの幼稚園から保育園を経て、その延長に位置している。

転校する直前、本格的な初恋をして、山根ユキ・・・コさん・・・ だっけ? 忘れてしもた。(汗)

以前の青にはキチンと載っていると思うが、失念してしまった。 確か、キは起だった気がする。

日焼けして田舎娘っぽかったけど、明るくてカワイイ女子だったなぁ。

 

最初の中間試験で、5クラス、200余人のなかで総合5位だったんで、私も友だちも驚いた!(笑)

一夜漬けしか努力してないんだが・・・ やればできんジャン! と思ったのは、この時だった。

爾来、学習的努力と謂えば、一夜漬けになってしまった。 才能は、ニンゲンをダメにするのだよ!

 

私が育った中ノ関は、カミノセキとシモノセキの間にあって、ほとんど干拓地で新興住宅地だった。

先の幼稚園のヒラタ先生が住んでいた松原が昔の渚だそうだから、防府市の平地の半分は

干拓地なのかもしれない。

 

ここが、住んでいた家があったところ。

ずいぶん立派な家が建っている。 ドブ川はただ掘っただけの溝だったが、キッチリしている。

もともと2軒分の平屋建てで、1軒を倉庫として用いるという贅沢な家だった。

おそらく、母屋につなげて増築したのだろうが、なぜか新しい方を使っていなかった。

二世帯住宅にしたかったが、息子夫婦が住まなかったのかな?

雨が降っても雪が降っても、そこで遊ぶことができたし、悪さをすると閉じ込めらもした。

父はそこで日曜大工に励み、様々な家具や箱などをこさえたものだった。

私も木っ端で、いろいろこさえたりした。

裏にも土地があり、家庭菜園と、一部を車庫にして使っていた。 車はホンダ・シビック。

 

右には大きな倉庫があるが、当時はただの広場(空き地)でよく遊んでいた。 

さらにその向こうには、ハス田とトモちゃんちがある。

 

わが家の裏は、農家のナガヒサさんだったか。

広場だった倉庫の向こうが母子家庭のナカツカさん、その裏がハシモトさんだった。

ハシモトさんは金持ちで、息子さんはワガママなヤツで、ステレオをガンガンにかけて騒音を

まき散らしたり、わざわざわが家のブロック塀にカンシャクダマをぶつけて遊ぶボンちゃんだった。

今にして思えば、友達がいなかったんだろうなぁ。(笑)

 

まわりの田んぼは、タンコツボあたりを残して住宅になり、ずいぶん変わった。

これまで、帰りたいと思ったことはなかったが、いっぺん歩いてみてもイイかもなぁ・・・と思う。

塩田のまわりとかも。


ではまた