昔の人の生活 と これから

 


 

巷の妙事

 

悪いが、大阪の震災でブロック塀が倒れた件に関して、日々笑わせてもらっている。

小学生が亡くなったことで、教育委員会が是非を問われているのが、愉快だからだ。

政治屋としては、献金元の土建屋を敵に回すことは禁忌・・・が、あからさま過ぎる。

 

かててくわえて

保護者や市民らが、自分たちはブロック塀の基準なんて知らなくて当然・・・という。

笑えて仕方がない。

 

「ひかえかべ」なんて、島では見たこともないが、内地でもそうなんだろうなぁ。

 

そもそも

プロであるはずの土建屋が、違法かどうかなど、請け負った時点で判り切っている。

しかも、あの小学校の壁は無駄に高く、増築した上部には鉄骨すら入っていなかった。

それを棚上げして、教育委員会をドーコーしようとする世論操作、バカ丸出しだ。(笑)

どんだけ資本主権を貫くのか・・・底が知れない国家体制である。

 

まんまと騙されてしまう親御さんの、おそまつな脳力も、もう笑うしかないレベルだ。

せめて、被害者妄想を暴走させれば子のためだ・・・とか???。

 

死によって、混乱しているのだろうけれど、サクッと利用されていることに気づけ。

我が子の死が土建屋の隠蔽に用いられているなど、最悪なハズだろうに。

 

ま゛しかし

先の東北の震災のまえ、ブロック塀による死者が頻出したのを知らぬとは。

そういう親らは、過去の事情や、ブロック塀の違法性など知らなくて当然、とか

仕事が忙しいから、通学路なんて歩いてチェックするヒマがない、んだろうなぁ。

無知や、カネを稼ぐのを優先する親だから、子らの犠牲は致し方あるまい。

そして、無知ゆえに、ブロック塀の責任がどこにあるのかも判るまい。

いづれにしても、幾重にも哀れなのは、子らである。

 

 

サーターアンダギーという沖縄の揚げ菓子について、耳にしたことがあるだろう。

メンドクサがりのウチナーンチュが、ナゼもってまわった名を用いるのかだろう。

 

サーター(砂糖) + アンダ(油/脂) + アギー(揚げ)

 

意訳すれば

砂糖の入ったナニかを、脂(もともとラード)で揚げたもの。

 

島では揚げるのにラードしかなかったから、今もコダワリのちんすこうはラードで揚げる。

だから、アンダを加えたのには、意味があるのだろう。 おそらくサラダ油の意味。

戦後の新しい菓子、という意味なのかもしれない。

もしくはサーターアギーだと、別のナニかがあるとか???

 

ちなみに

コチラだと、サタアギィになりそうな気がする。 油/脂は、アンバと謂う。

ウチナーグチのように伸ばさないから、サタアンバアギィ、ではクドすぎる。

一般的には、島ドーナツで通っている。

 

島の惣菜、油味噌のことを、アンバミシュと謂うが、沖縄ではアンダンスーらしい。

たぶん、アンダミスゥが訛ったのだろう。

ウチナーグチは、微妙な発音が失われ、カタカナ化が進んでいるから、

外来の客にわかりやすいネーミングが、好まれているのだろう。

 

沖縄では、どうか知らないが、徳之島ではシークニン(シークワサーに似た柑橘)の皮や

ヨモギを加えるなど、アレンジされることが多い。

 


 

ところで

沖縄慰霊の日の報道が、賑々しかった。

確かに、米軍に蹂躙されたのは事実だが、それは一時のことだった。

ニッポンで最も被害者なのはウチナーンチュだと思うのは勝手だが、事実は多分違う。

 

江戸時代といえば、チャンバラ・ドラマよろしく、士農工商の社会だ・・・などというのは

内地だけのイメージである。 沖縄も奄美も、まったく違う。

 

奄美では、薩摩藩により貨幣流通が禁じられ、士農工商でなく士農のみであった。

少なくとも近世で、営農しているのに、百年以上も貨幣がない生活を強いられたのは、

世界的にも奄美だけではなかろうか。

 

いかに薩摩藩の強いたプランテーションが、苛烈だったか・・・は、教科書には載らない。

内地だって、無理無体な年貢に苦しめられたではないか、とはいえ、貨幣はあった。

 

明治維新の礎となった資金も、そこから捻出されているワケだが、口が裂けても

奄美の奴隷労働によって得た金で、明治維新が成ったとは謂えない事情がある。

我が国は、外国の列強よろしくプランテーションで得た資金で近代化を果たした・・・

などと、今さらポン人に知らせるのは、大恥に耐えられない国民続出となり

なかばパニックを起こしかねない事実である。

サムライの国のイメージが、総崩れになってしまう。

 

ロスケが、北方領土をかすめとった・・・のと似たような事情である。

 

自給自足で、蓄財もできないし物を買うことすら許されない奴隷労働が続いたのが奄美。

その上、グスクなどの施設や文献は、すべて焼き払われたというから、根深い。

実際、江戸時代の島の文献は、ひとつも残っていない。 残るのは薩摩藩の記録だけだ。

 

歴史を感じられる観光地として、奄美が成り立たないのは、そういった顛末がある。

生きる事とサトウキビを栽培すること以外は、許されていなかったのだ。

 

セゴドンとか浮かれている内地だが、ヤツが食っていられたのは砂糖地獄あってこそ。

 

貨幣が無い生活、生活物資が最低限の配給しかない生活が、どのくらい厳しいか、

想像の外側にある。 薩摩藩で起こった百姓一揆は、2回とも徳之島・・・である。

 

ちなみに

衣服も自給で、バナナに似たバショウの繊維で織った、バシャギンであった。

そう、釣り好きならピンとくるはずだ、バショウカジキは、大きな背びれがバショウの葉に

似ているから・・・である。

 


 

次号の町の広報誌に、島の遺跡の特集記事を載せようと、編みつづけている。

 

例の観光マップと同様に、紙版と電子版で構成することで、閲覧者の楽しさを増進し、

文化遺産データベースの利活用促進をも目論んでいる。

 

コンセプトは 「在る袖は、全力で振りまくれ」 である。

 

島で農耕をはじめたのは、平安時代最後の頃。

弥生時代なんて、クソくらえだったのである。(笑)

よって、コチラでは弥生時代のくくりはく、貝塚時代などと呼ばれている。

 

私たちは、知らぬうちに狩猟採集は原始的で不安定な生活だ・・・と刷り込まれているが、

土地に縛られず、労働時間が極端に身近いわりに、摂取カロリーが高い生活だった。

先の黒歴史よろしく、士農工商を引き継いでソフトランディングさせ、富国強兵するには、

農耕生活を美化する必要があったのだ。

 

土地に縛られ、その年の気象状況しだいで、不作はおろか飢饉になってしまう農耕こそ、

不安定きわまりない生活なのだ・・・と謂えない事情あったからだ。

 

私たちは、存外 「日本の真実」 を知らない。

ポン政府は正直で事実しか述べていない・・・なんてことは、モリカケ同様に、

歴史上いくつも積み重ねてきたことだ。 「宇宙の真実」 はもっと意外なようだが・・・

 

さておき

島では、豊かな自然をベースに、長いこと狩猟採集の自由な縄文生活?が続いてきた。

 

なんだ、ダラシナイ生活者だっただけじゃないか・・・というのは、カナリ早計で、

農耕は始まるや、イキナリ須恵器に似た素焼きの陶器、カムィヤキ生産が全盛となり、

九州から沖縄の波照間に至るまで流通した、琉球列島唯一の窯元があった島でもある。

窯元といっても、数十は軽くあったようで、まったく発掘しきれていない。

 

判っているところでは、六千年前から生活者が断続か連続で、居続けていたようだから、

よほど暮らしやすい島だったのだろう。

研究者によれば、世界的な常識で謂うと、到底、狩猟採集は続けられない面積であり、

事実は異なっている。 無駄な欲が無かった・・・とか?

自由な生活なのだから、島単体で考えない方がいいのかもしれない。

 

ところで

私の勝手な印象では、太古からずっとイノーが在って当然だ・・・と信じ切っていたが、

3,500年前くらいから、ようやく完成の域に達したようだ。

氷河期を経て、サンゴ礁が成長するには、それなりの時間が必要だった。

 

伊仙町の面縄(おもなわ)貝塚が爆発的に豊かな貝殻を産するのは、そのころから。

左下のチョウセンサザエがあるのが、気にかかる。

 

貝類が多いということは、海藻があった・・・ということだ。 参考までに、ウニもだ。

南国にはサンゴはあるが、海藻は極めて少ないのをお気づきか?

ビーチに水着女子に、サンゴに熱帯魚にワカメ・・・という心象は、断じて無いと思う。(笑)

南下別の、都合のいいワカメ的な何かが生えているに違いない・・・と信じるのは勝手だ。

しかしながら、一般的に海藻とサンゴは同居できない排他的存在である。

 

けれど、徳之島の周辺には、40年くらいまえまで海藻が充実していた。

聞くところでは、ホンダワラのたぐいが繁茂していたらしく、貝類が豊富だった。

どこの磯でも、タカラガイをたくさん見かけたという話も聞いている。

タカラガイは割って食らうので、展示の対象になり難い。

 

大古の道具は、ど〜も実用的にどうか・・・と思うものの、貝さじは趣きが深い。

惜しい!

もうちょい取っ手らしく細工すれば、逸品だと思うし、現実的にすくうのに適したカーブだ。

おそらく、硬い食物ばかりで、咬む力が強かった連中にとって、貝さじは消耗品だろうから

細工するような品ではなかったのだろう。

 

あれ? 狩猟採集の時代の離乳食って、いったい何だったんだろうか・・・

 

そうそう

私が気になっていたのは、食べ物よりも「塩」である。

現代の塩分の摂りすぎは、過去にさかのぼるハズなのだが、汗をかいたあとの塩分補給を

どのようにしていたのだろう。 フツーの哺乳類は、汗もあまりかかず、塩分も排出しない。

 

縄文人は健康で、塩分も摂取しないし、汗からも出なかった・・・なんてことはない。(笑)

海藻を焼いた灰を「藻塩」とし、ぶっかけて食った・・・のだろうか。

 

アフリカやアマゾンの原住民は、おそらく塩を食する習慣がない。

生物から、ミネラルを摂取しているのだろう。

そういう意味では、魚介類には、たっぷりと塩分が含まれているから、島の生活では

あまり心配は要らなかったのかもしれない。

 

かててくわえて

冬は寒く、夏は暑い地域に生息するには、海の塩分が必須だったに違いない。

謂うまでもないのだが、適応できなければ、数年でヒトの群れとて死に絶えた・・・のだろう。

土地に縛られていなかった人類は、今ほど頭が固くないから、心配には及ばない。

 

最近の研究によると、狩猟採集の生活のうち、派手な狩猟の時間は週に3日くらいで、

その日の2〜3時間程度だった・・・というから、楽勝である。(笑)

 

その他の時間は、食べたり寝たりウダウダしたり・・・いろんなものをこさえた。

当然、そこらにある食ったあとの大きな貝殻を加工してみたりしたのだろう。

石器でこさえた工具があれば、切り抜きや穴開けは難しくない。

右の貝殻の矢じりなんて、イノシシやアマミノクロウサギなどには、刺さらなかったと思うが、

アクセサリーにしたか、石器の練習で加工したか・・・ あるいは

シャープにしておいて、鳥類や魚類専用の矢じりだったのかもしれない。

 

中央の釣り針に関しては、コレで魚が掛かったらポッキリ・・・な反面、

ルアーをたしなむ人物なら、貝の針なら空針で釣れることを想像するだろう。

現代においても、南洋の島ではまだ、フツーの釣り針(金属製)の空針をたらして釣る

習慣が残っている島もある。

魚がスレていなければ、キラキラするだけで釣れるのである。

 

現代ルアーにおいて、パールカラーや貝の箔の使用は定番だ。

 

とは謂うものの、そんな大古に釣り糸なんて・・・と思うだろう。

人類は、ナゼか体毛のない異様な裸生物であるため、衣類を発達せざるを得なかった。

暑い地域では植物の繊維を織った腰巻程度、寒い地域では毛皮をなめしてまとった。

髪をたばねるヒモやロープも生活には欠かせないから、繊維を利用する技には長けていた。

それに、昔の魚たちは、今と違ってドエライ多かった。

 

貝のオモリも見つかっている。

おそらくブダイなどを、追い込みなんかで漁獲するための刺し網を着底させるためのオモリ。

現代のシマンチュにはない、すさまじいほどの器用さがある。(笑)

安いパチモンであっても、何でも買える世の中になって、余計にダメになったのだろうなぁ。

 

貝塚の産物としては滅多に展示されないものの・・・実はクロフジツボも結構食べたらしい。

あんまりデカいので、実はそのうち食べようと思っていた。(笑)

 

植物では、ヤマモモなど甘い木の実のほか、どっさり生えているスダジイ≒大きなシイノミが

採れるから、ある程度保存も利いたのだろう。 水溜りに浸していた形跡がある・・・という。

 

「何もかも自分の所有物にすることこそ至高」 である資本主権社会において、

私たちはキッチリそれらを刷り込まれ、あるいは洗脳されてしまって、

「自由に土地を移動できる権利」 を強制放棄させられて二千年近く経つ。

農耕生活は蓄財の積み重ね、格差進化の歴史でもあった。

 

「持つ者と、持たざる者を明確に分かつ文明」 の命脈とも謂う。

 

我が国から出土した土器=焼き物は、四大文明より古い。

文字はなくとも、技術は高かったことから、おそらく言葉でなく察することを文化としていた

のではなかろうか・・・ 空気を読む能力こそ、社会生活の根本だったに違いない。

そして旧石器から縄文にかけ、とても安定した豊かな時代だった。

金ピカに飾ったり、バカでかい墓をこさえて権力を誇示するこもなく、身の丈で生活を続けた。

 

世に 「共時性」 というのがあって、ある時期に、何の関連性もないのに、

離れた地域どうしで同じことを発想し、実行する・・・ことがある。

文明の発祥も、そういうものかもしれない。

 

同時期の見方が、現代の私たちはバカに近視眼的だが、太古において千年くらいズレても、

それは誤差の範囲内・・・と謂えるだろう。 生物の歴史は、最小でも数万年単位だし。

 

さておき

私たちの生活は、自由と謂われているはずなのに、かなり不自由である。

それは、自由は不自由と紙一重だ・・・などというコトバ遊びで、片づけられていたりする。

私たちの自由は、コトバ遊びレベルなのかもしれない。

自分や家族が病気なのに、イチイチ休むのにはばかられる社会を、自由とは謂わない。

 

それにしても、ポン人の全体主義は往き過ぎだ。 

絆もないのに、つながりの形骸だけは守ろうと必死になる。

 

私たちの社会システムは、まだまだ幼い。

これからどういう社会にしていくのか・・・ その前に、暑いし、雨風が強くなってきている。

とりあえず、数を減らすのが先になるらしい。

どういうわけか、地震まで頻発している。

都合いいなぁ゛〜 まるで月の重力を変化させて、操作されているようだ。(笑)

 

ふだんから

シマンチュはダメ民族だ・・・とツッコミっぱなしではあるものの、、

実は薩藩プランテーション以前は、琉球列島における、一大陶器生産地であった。

「類 須恵器」 と呼ばれていた、初期の陶器 「須恵器(すえき)」 に似ている素焼きの陶器。

生産時期は中世で、先の狩猟採集に切りをつけた後のこと。 名を「カムィヤキ」という。

なんと発見者は、移住の時お世話になった、伊仙町の四本(よつもと)氏である。

 

古来、須恵器は時の垂仁(すいにん)天皇のおわす、西暦ゼロ年あたりに朝鮮から伝来した。

都合1000年ほどかかって、徳之島で生産されるようになった・・・のである。

何しろ、琉球列島唯一の陶器生産地が徳之島南部で営まれていたのは、驚愕の事実。

長崎から、波照間島まで流通していたというから、日常の器として重宝されたのだろう。

土器より便利ならば、陶磁器だろうが須恵器だろうが、ど〜でもい〜に違いない。

 

元々、島内のあちこちで土器を焼いていたらしいから、技術の蓄積はあったのだろう。

ツバメコノシロ欲しさに釣りに赴いていた浜の近所、ウシクバテの遺跡から出土した、

独特の紋様の土器片。 徳之島オリジナルとされる。

 

カムィヤキの窯は、ジャングルを拓き、丘の斜面に穴を掘った初期の登り窯の「あな窯」。

登り窯では、焼成温度が高く、さらに勢いのある炎により自然釉がかかりやすい。

周辺は、カムィヤキに適した土があって、立地の要因だったらしい。

 

なのに・・・現代の体たらく。

砂糖地獄となった島は、自由もなく、蓄財もできなくなったとき、

シマンチュは希望を失い、何も考えず、ただ生きることのみに専念する・・・ようになった。

品質を理解しないのは、生活さえできれば、物は在るだけで足りている、からだろう。

しっかりロハスだが、現代日本において、品質を知らぬ民族はダメのレッテルを貼られる。

私たち内地人の重んじる 「おもてなし」 は、品質なしには実現できない。

 

ちなみに

垂仁天皇は、伊勢神宮を建立されたと謂うから、なんとも遠回りにご縁があるものだ。

伊勢神宮って、そんなに昔からあったんだ・・・ 

 

私たちはナゼ、8時間近く労働することを常識とせにゃならんのか、

あるいは、温暖化で気象が荒ぶる時分に、シンクロして地震が起きるのか、

超大なウネリを察する脳力を得る必要があるのか、無いのか・・・

 

知らない方が、幸せなのだろうね゛〜 歴史の顛末からすると

 


ではまた