なんのため 労働

 


 

うつつのウワサ

 

いよいよ、三沢にノロマなステルスF35が配備された。

問題は、F35はF16同様に単発ジェットなのだが、騒音がバカでかい。

F35の導入には、表と裏の二面があるんだろうと思う。

空自は、ステルスを裸にするレーダー技術を開発中だからだ。

 

ラジオからは、賑々しいオリンピックの話題が流れてくる。

役場でも、仕事半分で、オリンピックの話題に興じる職員が多い。

テレビやネットの向こう側の勝利を願い、一喜一憂・・・私には無い感覚である。

そんなことをして、なんの得があるのだろうかと、滑稽さに苦笑させられる。

他人の努力に感情移入することで、救われるとでも思いたいのか???

知らないヒトを応援するのには、無理がある気がするが・・・

 

モリカケ、働き方ナンチャラ、リニア新幹線利権分配、政府も火消しが大変だ。

経済という仕組みが、拡大の一途ではない・・・と気付きだした人も少なくない。

それはそうだ、ナニを売るにしろ、地球の大きさなりの限界がある。

2033年には旧暦が破たんするようだし、ニンゲンの考えにも限界がある。

資本が主権を為すニンゲン社会、悪くはないが・・・善くもないねぇ。

パナは働きたい企業ナンバーワンらしいが、昭和の社畜精神に満ちた企業で

平成生まれの冷めた若人たちは、いったいどのように振る舞っているのやら。

仕事は人生の切り売りだ・・・と昔、上司から諭されたことがあったなぁ。

大半の仕事は、おそらく数十年後にはAIとロボットが入れ替わる時代、

凡人の人生など低廉になり、主権はいったい、ナニが占めているのだろう。

 


 

誰が8時間労働を決めたのだろう、なぜ日中だけ働いて夜は寝るのだろう。

私たちは長年、この疑問を抱かないように教育されてきた。

もともとというか、農耕民族になってから、日中は馬車馬のように働く生活になった。

狩猟採集のように、都合のいい場所に移動できなくなったから、

やせた土地でもしがみついて、ムリヤリにでも営農せねばならなくなってしまった。

その因習が、現代社会の労働形態そのものに変遷したのだろうと想像できる。

 

農耕は2万数千年前からと謂うから、ちょうどネアンデルタール人が絶滅したころだ。

 

私の不眠はこのごろ深刻で、深く眠られないために、えらいオモシロイ夢を多量に見る。

上を向いたら呼吸が止まり、横を向いたら肩や耳が痛くなるからだ。

想像もつかぬ、見知らぬ夢を見るのは、悪くない体験でもあるんだが・・・

 

ダメージを受けるのは、脳や体の活性が下がること以外にも、視力が低下する。

夢を見ているときは、結構目を使っているのかもしれない。

 

当然のことながら、創作意欲も労働意欲も湧かないから、無理に働かななくなった。

 

ひるがえって

野鳥などを観ていると、無駄に活動しないし、蓄財もしない。

 

人類と謂えば、現代科学が進んだのに、今も日中は盲目的に働いているわりに、

なぜか社会的にギリギリな感じの生活を営んでいる感が否めない。

そんなに高望みしているようでもないのに・・・である。

スマホに4Kテレビ、電気自動車、自然と相容れるには遠い贅沢品ではある。

生活をギリギリにさせる必然的商品が、次々と現れて、カネを使わせていく。

そうして、自然とは相容れない生活が加速しているらしい。

 

営農で生まれた概念が蓄財、そしてカネへと姿を変えたわけだが、

ポン人にとって、現代社会は生きるためというより、カネを稼ぐために生活する環境。

何もかもが悉く、カネを中心に動いている環境、資本主権社会。

結局のところ、子育てする時間も体力も失って、人口が減ってきた。

 

個人的には、仕事に熱中しすぎて精神が疲弊し、まともな意欲を失ってしまった。

凝り性で燃え尽き型だから自業自得、それは芸術系向きの性分であると思う。

 

フツーニンゲンでは使えない技を使って、自分の能力を加速させて仕事をした、

そのツケが回ったのだろうと想像している。

クラ≒気を扱えるからと短絡した結果・・・だ。

なにも、クラは健康や格闘技のためだけでなく、血流を高めターボ化し、

脳力を加速する・・・といった利用法もある、というだけのこと。

ドーピングだけが、人類の余剰能力を引き出す手段とは限らない。

 

科学を究めるのならば、科学で解明できないことも究める必要がある・・・

と勝手に思っている。

なぜ科学が追い付けないのか・・・を考察するのは大切なことだ。

おそらくそれは、大雑把には常識や既得権が阻害しているんだろう想像がつく。

 

科学を超え、さらに政権や統治を脅かす事柄は、闇に葬られるか、オカルト化される。

そう、UFOや宇宙人が最たる例だ。

現代科学や武力による統治を超える「上位存在」を認めてしまえば、国がまとまらない。

さらに、オバカな民は、すぐにだまされてしまう。

宇宙人の否定は、人類の存在がオカルト化するのに・・・だ。

教育と洗脳は、ほとんどイコールである。

カミを信じない人類は、オカシイ・・・みたいなハリウッド映画が続出する体たらく。

カミとやらが人類をこさえたことにしないと、大衆の人格を保つことが難しいのである。

 

身近にも、そうしたオカルト生活が、多々存在する。

南のユル民族は他力本願で、北の耐えるのが美徳民族は自助努力という情報操作で。

南方民族は基本的に思慮に浅く根性がない、北では思慮深く粘り強いが、行動が遅い。

 

コメは日本を支えてきた。

 

コメが大切だとする民族性を保つ策も多々ある。

むりやり寒さに適応させた品種をこさえ、魚介類よろしく、北ほどうまい伝説は、

なかなかどうして成功している。 北方民族のネバリ勝ちといったところ。

南方民族には開拓心どころか向上心が希薄であるから、当然の結果だ。

ただし、コメは熱帯植物であって、日照や雨量の多い南方が圧倒的に有利なのに。(笑)

 

コメを奮わせる情報は、どこぞの将軍様情報よろしく、いかにも賛美されている。

玄米が健康に良い・・・のなら、白米とヌカを食せばいいハズだが、それはない。

なのに玄米食だけは、細々と信仰されつづけている。

まずい食事こそ、体に良い・・・貧しい農民気質のM魂を刺激する、健康食信仰である。

 

植物の種子は、もともと天敵に食われないよう全力で守ってきた。

植物はバカや下っ端ではない。 動物よりも先に海中から地上にやってきた生物だ。

常に後からやってきた連中を撃退しなければ、今に至っていない・・・のは常識だ。

なのに、教育では生物界の底辺扱いが続いているし、常識とされてきた。

底辺ではない、数が多く、繁栄し、あまつさえ他の生物を支えてきた存在そのものだ。

カミが創造した、どえらい都合のいい生物像・・・とも想えなくもない。

 

そうは謂っても

植物の種子は動物の卵に相当する栄養価ながら、当然、葉を食べる事よりもリスクが高い。

動物は実力行使で卵を保護できるけれど、植物は静的手段を行使するしかない。

 

今もって、玄米が主食にはならないのは、不味さ以外にソレナリの理由がある。

のだが・・・目立った情報がない。 米作農家に打撃を与えるので、表立った情報はない。

ただまぁ゛〜 ほとんどの米作農家が、自家用には農薬を使わず栽培していることを知れば、

謂わずもがな・・・ である。

玄米食は、本来的には栄養価に優れ、優れた食品のらしいが、現代ではビミョ〜。(笑)

 

どうだろう

籾すりするためにコメを乾燥させる時間が必要だが、せずに籾すり+精米できれば、

鮮度の高いコメは、もっともっと異次元の美味さに違いない。

 

ところで

イネは、ニンゲンたちがこさえた薬物を、玄米の表皮に蓄える能力があるらしい。

品種改良をしたからか、あるいは素質なのかは判らない。

 

もとより、植物の子孫である種を守り、食われまいとする毒素は多種多様で、

将来的にDNAを破壊に追い込むような成分であっても、今は食らうしかない。

それを克服する、我らの進化が勝つかどうか・・・の問題だ。

 

世の中の常識、国や学者、ネット識者が正しいとは、ひとっつも謂えない。

それは未来に答えがあるだけだ。

 

正しい答えがあるとすれば、生き残った者が勝ち・・・というだけのこと。

 

現代人類は、無駄に自由が認められるような社会性を得た。(笑)

結婚、出産だけが人生や家族の在り方とは限らず、同姓婚もアリだ・・・のような。

これは一見自由に見えるが、実は国家統治、政治、社会システムに限界が見えたので

ガス抜きのために、ユルい逃げ姿勢の民を優遇し、誘導するための英断?である。

ぶっちゃけ、負け組のDNAを残すことは正しくないから、繁殖しない方向で・・・だろう。

 

先進国の政府にとって、とっくに答えが出ていると思われる。

無駄に国民、あるいは人類が増えすぎることの、功罪というよりリスクが重すぎることに。

 

というわけで

私たちは、そこらのソレッポイことを信じ、本当と思うように・・・と躾けられてきた。

だが、その知識は、ウソかソレッポイか極大の事実であって、結論や答えではない。

 

つまり

本当のところは、未来を自分で予測して、行動し、生活し、生存し続けるのが正しい。

けれども、そういう曖昧で不確かな未来を信じろ・・・とは国として統治者として謂えぬ。

 

そういう大局を踏まえたところで、8時間労働ってどうなのか・・・

 

カネがあれば、自由が得られるという、メリケン的憧れ感でもって、ポン社会は在る。

ただ、ポン人はあまりカネを易々と使いたがらない精神性があるし、勤勉だった。

ここにきて、贅沢な生活が定着し、ヤル気などなくても生きられるようになった。

グータラ民衆を統治するのには、労働に集中させるのが最も前向きに見えなくもない。

 

昼は労働、夜はプロパガンダ情報混じりのテレビ視聴に興じる小市民集団・・・

経済は回り、資本主権社会は静かに前進する。

 

民衆には社会の歪み感と貧富の差、あるいは既得権益者の更なる欲求も前進する。 

 

ポン人のように穏やかな民族ならいざしらず、大国のお歴々やら、

半島の少民族にも、歪み感や統治へのウッセキが噴出し、

統治者たちは、内政の悪化から民衆の目をそらすよう、強硬外交に出るしかなくなる。

 

穏やかな私たちは、ただ労働に明け暮れることで、嫌な事から気を紛らわせる。

日常的なアレコレを忘れるのには、カネを得られる労働は最高のムチでありアメである。

 

マジメ、キンベン、キンロウノケンリ・・・ニッポンを支え、社会を高めた精神性。

 

世界の大半が、ボタンを掛け違えて見える今、ろくに納税もしなくなった私にとっては、

遠い昔のようにも感じられる。

 

積極に働きたいとも思わなぬが、働きたくないわけでもない、

私の労働は、楽しいたぐいの事柄だからだ。

ただ、カネになったところで、買いたい、往きたいところがあるワケでもなくなると、

ナニに対しても、意欲が薄れていくものだ。

私の人生の大半も、資本が主権たる在り方で錬成されているに違いない。

 

あまり希望らしい希望がないわりには、誰にもできない事をやっておきたい・・・

気、まんまんである。

 

鳴きマネしかり、濃密すぎる情報量の観光マップしかり、安い素材で旨い料理しかり、

手ごろなルアーで手ごろの釣り方で、手ごろの魚を釣りたいとか・・・

人生を贅沢に費やすというのは、なかなかできない発想だろうし。(笑)

 

もともとのニンゲンらしい、労働でない動きで得られる満足も、あるはずで。

少なくとも、子は親よりは後に死ななければならないから、まだ少々時間がありそうだ。

 

ホウレンソウのお浸し。 わが家では、そう呼ばれている。

だが、ふと気づいたら、ゴマ和えであった。(笑)

 

お浸しはもともと江戸時代に、野菜をゆでてしぼり、だし汁に浸す料理だったらしい。

明治以降になって、しょうゆをぶかっけるだけの料理に変化したらしい。

そしていつしか、ホウレンソウに関しては、ゴマをかけるようになったらしい。

 

ゴマ和えとの違いは、ゴマが少な目でよく、砂糖が入っていない・・・ことだ。

もはや、お浸しとは遠いものの、名だけが残っている有名料理。

和食の典型・・・でもある。

 

私たちの生活も、いつしか名だけが残って、中身が変わってしまうのだろう。

お祭りが、さっぱり神を祭らなくなり、イベントになったように。

カネが金との兌換を失い仮想化、いよいよ紙幣貨幣も消えつつある。

AIは、その正しさを教育するニンゲンが必要だが、いつしかAIしか知らない

ニンゲンの知識や経験が残される時代がやってくるだろう。

 

今はまだ、かなりマシな社会なのかもしれない。


ではまた