太平洋戦争 と 画像解析
世間の春風
時節柄、フクシマの復興という単語が連発されているが・・・もともと出稼ぎ地域でもあって、
出稼ぎ家庭の復興というのもビミョ〜な感じがするが・・・どうだろうか。
案の定、絆というのは流行り、廃れてしまったらしく、語り継ぐ人は少ない。
生活するのに精一杯だから・・・なのだろうが、生活と絆が別次元なのは寂しいことだ。
NHKがユルい表現を報じていた。
「介護疲れから夫を殺害したあと自殺を図ろうとしたとみて、詳しい・・・」などと伝えた。
だが、図ったあとに実行してして、幸い?失敗した様子なので、時間の前後関係が妙だ。
殺伐とした事件をヤンワリ伝えたかったのかなぁ・・・やっぱり春かねぇ。
戦後70周年記念誌の編集委員に任じられたのは、昨夏のこと。
防災に加え、教育分野の鳥類データベースの仕事も請けていたので、
編集作業はお断わりし、裏方に徹することにした。
なにしろ戦時ネタには暗く、私の体験していない、想像すら難しいジャンルでもあったからだ。
私の役割は、主に現在残る戦跡の撮影と、戦時中の画像の調査と収集となったが、
それはそれで、暗中模索で実は厄介だと知るのは、やはりいささか後の事。
なにしろ編集会議では、画像中心にまとめよう・・・という方針になってしまったのだ。
古い写真には、ほとんど著作権が切れているものも多いが、そうでないカットもあるし、
ネット上の画像は、利用価値があっても出所不明の画像も多々存在している。
ともあれ
あれやこれや調べていくうち・・・日露戦争で増長せず、真面目に戦争していれれば、
勝てはしなかったろうが、負けなかっただろう・・・と、まったく残念に思うことも多い。
日本の実質的な占領下にあった地域は、経済発展しているし。
何より、その実力がなければ、
戦後の異様な?復興やら経済成長が在り得なかった事は、謂うまでもない。
大鑑巨砲を好む思想に至っては、もはやどのような戦闘をしたかったのかすら、
考えるに窮する異常に偏執な志向なのは羞恥の事実?
大きな艦船は、航空機からも潜水艦からもただの大きな的でしかない。
そのくらい判れよ・・・と思うことしきり。
工業力でメリケンには勝てなくても、資源や信頼においては勝っていた。
ともあれ、なぜか裏方の私も新聞に載ってしまった。
インタビューの際、中央の編集委員長M村さんが緊張されていたようなのが、微笑ましかった。
なにしろ、記者の質問への答えがかみ合っていなかったり。(笑)
元町議なのだけれど、独占インタビューには慣れていらっしゃらないようだ。
さて、先の冊子は・・・早々に完成した。
新聞に載って以来、連日問い合わせがある人気の冊子となっているよう。
戦時に島でアメリカ軍の空爆にさらされた本人の問い合わせがほとんどで、実に生々しい。
ただ・・・どういうわけか、ゲラのチェックもそこそこに、印刷されてしまった。
結果、早い仕上がりとなったものの、これまた連日のようにポカミスが見つかっている。
編集委員としては、かなり心苦しい日々を過ごしている。
私の作業場は問い合わせが入る、天城町役場企画課だからだ。
田舎の役場がこさえるのだから、この程度のポカミス多めは仕方ない・・・
と謂い捨ててしまえばそれまでだが、あまりに残念なところもチラホラ見受けられる。
あと一週間遅らせても、別に年度をまたぐことも無かったし、まだまだ余裕もあったのだが。
しかも、編集時点でもうひとつの地雷を、まんまと踏んでいた。
編集委員は私も含めて素人なわけだが、修正点を逐次編集者に口頭で流し込んでいたのだ。
これが実はカナリマズイことで・・・変更した部分に、またぞろ再変更などが発生すると、
何が本当の修正なのかサッパリわからなくなり、オペレーターとの信頼が崩れ始めるし、
嫌気でモチベーションも下がる。
協働するというのは、相手の心理や作業効率を考えるのが至極当然だと思うのだが・・・
一方、いささか面白い現象がある。
完成品だと、じっくり読みふける人物は多いが、ゲラで冊子がバラバラした貼り合わせだと、
真剣に読む向きが少なく、どうしてもミスを見逃しやすいというか、熟読しない傾向が強い。
それは誰に限ったことでなく、なぜかニンゲンはそうしたものらしい。
だから必然的に、チェック作業では見逃しが発生しやすい。
同じ編集委員の私が、このようなツッコミを入れるのはオカシイかもしれないが・・・
ビジネスに年功序列や、性癖を持ち込んでしまうのが、シマンチュの習性。
考えをまとめる作業が非常に苦手で、さらに互いの考えを述べ合うどころか、
会話がキャッチボールでなく・・・ドッヂボールになってしまう民族性だから、
こと書籍に関しては思い込みによる怪しげな言い回しや、内容の含まれたものが多々存在・・・
というか、ほとんどソチラっぽい印象が否めない。
客観性・・・やはり、シマンチュ思考の対極にある概念だなぁ。
あと20年くらい経て、戦中戦後で生きることが精一杯世代が減少していけば、
先輩風は残っていても、学校教育という客観をもった世代が増え、社会もやや遷るだろう。
そのころ私は70か・・・生きてないな。(笑)
時間は遡る。
内容は上手くまとまっていきたのに・・・
もっとも基本的な、デスマス/デアル調ですらままならぬ編集委員の先輩ら。
本論とは別のところで捗らない編集会議に、苦痛が増すばかり。
相変わらず、シマンチュが苦手な討議で会議を通そうとするから、無理が重なる。
もはや文体を直すことは無理なので、重大な相違点以外は口出しを控え、文字通り閉口した。
念のため、修正点については、口頭でなくエクセルの一覧表を配布して対応しておいた。
ストレスばかりで、賃金以外得られるところが無いのは、私の島生活にとっては意味が無い。
なんと謂っても、不眠症と抑ウツの静養のため、1ミリでも前向きに生活したい。
どこかに、愉しみながらスキルアップにつながる仕事は無かろうか・・・と折々に思案していた。
当初、
古老へのインタビューも最後になる発刊タイミングだからと、取材をメインに構想されていた。
けれども米軍の記録写真がメインになった途端、髪型QP課長が取材をサッサとやめてしまい、
古老の味わい深い表情を写せるだろうと喜んで、撮影用機材を用意したり、
撮影の練習をしたのが、まるで無駄になったりもした。
私にとっては、まったくイライラもやもやなプロジェクトで身にならぬ時間が過ぎていた。
で・・・たまりかねて手探りで始めたのが、浅間陸軍飛を現代の地図上で復元する作業である。
見通しが立たねば、まったく無駄になり賃金も請求できないから、賭けでもあった。
数年前、町制施行50周年のときに集めた戦中戦後の写真の中に、
私の家の周辺を爆撃した画像が多数あった。 私の家も、陸軍飛行場の敷地内にある。
その画像の記憶から、パースペクティブを勘で補正すれば、復元が出来るかもしれない・・・と
漠然としたイメージはあったが、当時はそれを仕事にするプロジェクトがなかった。
実は、
前の博物館の館長N水さんが、その空爆画像をコピーして手作業で貼り合わせ、
博物館の壁に再現しようとしていた熱意を感じていたことも、背中を押していた。
そう書けば・・・なんとなく男子としてカッコイイのでは?(笑)
実際その通り、N水さんの熱意は私の心の内に、ずいぶん深く伝わり熱くなっていた。
反面、肉も食えない経済状態の手前、金にならぬボランティア作業もできぬ。
技術的にもハードルの高い作業を勝手に始めるのには、いささか悩ましかった。
だが、イライラのままでも居られない。
戦争当時のカメラレンズは、広角になるほど歪曲収差を防げず、
水平線がひん曲がるような設計しかできなかった。 味わいはあるが、正確さは無い。
必然的に、わりと画角が狭いレンズを用いており、とても断片的で何処を撮影したものか、
イメージできないカットが多かった。
冊子に載せる空爆画像を分別していたとき、説明のためのキャプションも必要であり、
編集するからには史実を知らねばならず・・・仕方なく戦時の顛末を書物から読み取りつつ、
画像を眺めるにつけ、空爆の経路をイメージできるようになり、ほぼ全ての航空画像の地点が
特定できたのだ。 そのあたりは、町誌に生々しい記載がある。
この時点で「たぶん、なんとかなる」と実感がわいた。
こんだけマエフリがあれば、デキルだろ!!!とツッコミの声が耳に届いてきそうだが、
ドラマにあるような・・・科警研が、監視カメラのたかがワンカットを画像解析する程度なら
楽勝で出来そうな気がするものの、搭載カメラが同じとも限らぬし、
飛行条件が異なる複数画像を何枚も都合よく変形し用いるなど・・・
イメージはできても作業は未知の世界にある。
で・・・
意外に70年前から変わっていない道路と、そうでない里道が入り混じり、
画像解析はなかなかに愉しい苦労?の連続であった。
地元の道路だし、津波防災や消火設備の確認で歩き回っている実感と愛着もある。
直感的に画像の方向を判断し、別の画像で判明した部分との合わせ目などを検めながら、
飛行高度、撮影角度も異なる画像を、微妙に伸縮させて重ね合わせていく作業は愉しかった。
正解に近づくと、自然とキレイな台形に変形した画像になることがわかる。
想像はしていたが、道だけでなく地形も重要で、土地勘がないとうまく合成できない場所もある。
例えどんなに高額な金子で外注しても、こればかりは地元民でないと完結しそうにないなぁと、
作業半ばにして実感していた。
いかに優れたコンサルや技術者だったとしても、地元の土地勘がないことは
今回の作業にしろ、防災マップにしろ共通の難関となるに違いない。
手持ちの画像を全て集約したが、決定的に精度が低い部分もあった。
先の画像で、もっとも大きく下まで伸ばしたパースの強い画像でしかフォローできない、
飛行場中央西側だ。
現在の天城総合運動公園から徳之島空港のロビー周辺にかけて・・・である。
おそらくそこは、軍事的に重要で無いから、あまり空爆しなかったのかもしれない。
確かに武器庫や燃料貯蔵施設から、もっとも遠い場所だった。
北部には掩体壕が多く主要施設もあったし、南部、湾屋(わんや)には飛行場建設当初から
三角兵舎があったりしたから、目をつけられていたらしく・・・鮮明な画像があっただけに
ポッカリやり残しがあって、歯切れの悪い画像解析となっていた。
ここで冊子印刷のタイムアウトとなり、冊子には精度を高める前の形状が小さく載っている。
冊子の後ろのほう、町内全域に散在している戦跡マップに盛り込まれている。
私が作成したマップは2種あった。 先の詳細な浅間陸軍飛行場の再現地図と、
全町にわたって配備された独立混成旅団の部隊配置を記載した戦跡マップである。
何れのマップも、戦時の文書が残っていても断片的だったから、どこにどのような施設があり、
部隊が配備されていたか、一覧できるマップは存在していなかったから、
冊子を読んだら、それを片手に町内をめぐって欲しかった。
なので、事あるごとに、マップの必要性を訴求していた。
最終的に、編集会議では後者=町内全域の戦跡マップが選択された。
この選択は後に大正解だった・・・と、私なりに妙な因縁を感じることになる。
戦跡マップを作成するにつけ、
なぜ、飛行場からやや離れた岡前小学校が空襲を受けたか・・・についても、
部隊配置を調べながら町誌を読みあさった際にわかった。 部隊の一部が学校にいたのだ。
ずいぶん以前の取材で、岡前小学校の旧正門に弾痕があったのは、そのためだった。
ガシッとえぐられた弾痕が何処かは、冊子をゲットできた人のみぞ知る・・・(笑)
そして・・・
最終原稿が印刷業者に渡った直後に、たまたまたどり着いたサイトに、
昭和20年3月1日、ぼろぼろになった浅間陸軍飛行場全体の空撮を見つけたことで、
飛躍的に精度が高まり、核心に迫るチャンスがやってきた。
この写真を掲載されている方は、沖縄戦史をライフワークとして長らく研究されているそうで、
実は、このサイトから多くの史実について、引用や参考にさせていただいていたのだが・・・
あまりの情報量で、すんなり画像にたどり着けなかった。
結局、紆余曲折していたら、一周回って戻った感じ?である。
いろいろあって・・・
戦跡マップや詳細な再現地図と戦跡マップは、4枚もの看板になることが決まったからだ。
今度は自分なりに、じっくり取り組まれる。
ぶっちゃけ
冊子のデータ入稿の際、他の仕事も山積し、高精度な修正を施すには間に合わなかったから、
とりあえず冊子に詳細を載なかったのは結果的に正解であり、看板にすることになったお陰で、
確実な進化を遂げ、正確な知見を得ることになった。 なんと運のいい運び・・・
全体空撮の画像をベースに、先に配置していた画像を、より正確な位置に直す作業をしていたら、
実はこれまで眺めていた画像の中に、淡く掩体壕(えんたいごう)が写っていることに気づいた。
掩体壕は、本来は空爆に耐える格納庫だが、厳しい戦時下では簡易な盛り土の場合もある。
島でも盛り土バージョンだった。
左上の補助滑走路の掩体壕を確認するための別カットから、右にも見つかった。
現在の、大久興業のすぐ近所である。 右上から中央下に抜けるのが、現在も同じ道筋の県道だ。
こうして見えやすくするためには、レベル補正やトーンカーブを変化させ加工を施してある。
もともと
先の全体写真で明確になった飛行場西部でも、ひとつ見つかっていたから、都合3ヶ所の新出。
これまで割り出した掩体壕は19しかなかったが、20余りあった・・・という言い伝えに合致。
ようやく、私の達成感が満たされることになったし、コンピュータで紐解く史実があることも実感した。
と・・・さっきまで自慢げに感じていたワケだが・・・
先ほど全体空撮を処理していて気づいたが・・・ありゃ? もうひとつあったのか???
これまでディテールばかり気にしていたが、俯瞰してみることも大切・・・というのを痛感した。
下の掩体壕がこの画像で初めて見つけた一つだが、上のは未知だ。
ここにあれば、誘導路の妙な形状にも合点がいく。
部分を画像処理してみたが・・・・やっぱり本物っぽい。
ここに向かって比較的正確な爆撃の跡らしきがあり、ひし形の壁の形が浮き彫りになっている。
こちらの画像の場合、階調性が乏しいので、画像処理してもなかなか浮き出てくれない。
それにしても、今更新たな掩体壕が見つかるなんて、ヤバイぞぉ〜!
もっとヌケがありそうな気がする!
心配になったので、このログの記述を中断し・・・日曜ながら急いで役場へ行って確認してきた。(笑)
中央左が、前述で見つかった壕だが、右上の誘導路は絶好の地の利のわりに壕が少ない。
左は徳之島湖だから空港で、中央が平和通り。
空爆時の写真を注意深く確認してみたところ、やはり上図にない壕が2つあった。
やれやれ、この記事を書かなければ、見落とすところだったわい。(笑)
明日行って、精査して加筆しておこう。
(実は、明日の作業で、さらに西側の誘導路形状から、もうひとつ見つけてしまった・・・)
米軍による内地の空爆は都市部に集中していたが、徳之島は日常的に空爆されていた。
私たち内地人が知ることのない恐怖の戦場が、私の住む地域に展開していた。
窮極たる沖縄の地上戦は悲惨を極めたが、そればかりが南西諸島の惨事ではなかった。
昭和19年の10月ではまだ、コーラル(サンゴのかけらの石)を敷き詰めたところは狭かった。
上が南であるが、このときはまだ右下の方、つまり北西部分にはコーラルが敷かれていない。
中央からやや右へ、太い帯として見える右端の1/5ほどが、史実にある滑走路の部分である。
だが、翌20年の3月1日の画像では、ずいぶん西へ広がり、倍くらいコーラルが敷かれていた。
爆弾で開いた穴にはドラム缶など、なんでも詰め込まないと埋められなかった聞いたことがある。
今更カモフラージュというか・・・空爆が激しすぎるので、コーラルを広く敷いたのかもしれないし、
滑走路を拡幅して運用したのかもしれない。
現場の判断だったろうし、混乱のさなかだったろうから、公文書も残っていないようだ。
記録は無くとも、史実は存在している。
現代人にとって大切なことは、自分の身の丈で史実を感じとることだと思う。
上記のように、掩体壕の一部は現代にも残っていた。 (右上が北である)
現在でも、不自然な「く」の字として衛星からも確認できる。
上にある平たいモスグリーンの四角い屋根の一部は、天城町立・北中学校の体育館。
ちなみに私は移住当時、そのすぐ右わきの黒い屋根のもとで居候していたから、何かの縁か。(笑)
ここに、4枚のうちの一枚を設置する。
私のマニヤックな?職人気質が生み出した、一見無駄な史実だったが、採用いただけて嬉しい。
ビジネスライクだけでなく、島らしい信頼関係だからこそ見守ってもらえたし、進められた。
年功序列や意思疎通が厄介な島の人間関係だが、絆の篤さが奏功することも多々ある。
都会のサラリーマン時代には、じっくり長いスパンで仕事できなかったけれども、
今は十分な時間があるから、そうした仕事の仕方も探求できる。
短期的に、成果をキリキリ追及しないほうが、場合によってはむしろ成果が出る・・・ということか。
看板制作で悩ましいのは、看板はたまにしか受注しないから、勘所が乏しいことだ。
だからプロジェクターを借りるのが近道である。
最大で3mX2mの大物。 私にとっては人生で最大面積の看板である。
このごろのプロジェクターは、広角に高密度の投影ができる性能のようで・・・
なぜだか会議室の事情には合わず、イマイチ投影がうまくいかない。
ましかし、イメージはつかめた。
役場でのデザイン業は、わりと多彩で忙しくなった。
ほかにも、ふるさと納税のパンフレット作成も加わっていて、かなり窮するスケジュール。
無論、ふるさと納税にはお礼の品々があり、そのブツ撮りも含んでいる。
かてて加えた、看板4枚のうち1枚は戦跡マップから格上げ?になり、
観光マップになったから、ネタ選びから写真探しまで、作業量は膨大になった。
観光マップは現地へ赴くためのものだが・・・島でのマップ問題は、
どのような細かな地図をこさえても、細い道と目標物も無い土地柄ゆえに、行き着けない。
スマホ用に、グーグルマップへリンクするサイトをこさえるアイデアも考え中。
ただ載せるだけでなく、なるべく職員でも自在に修正や追記できる工夫が必要である。
仕事は増える一方だが・・・時間は減る一方だ。 ど〜すんだ私・・・
そういえば、鳥類データベースは、あと10種くらい追加しないと目標の50種にならないし・・・
役場の3月は、70日くらいまでらしいのだが。(笑)
下草が大々的に伐採されて見つかった、ホ式高射機関砲の薬きょう。
再び草に埋もれ、眠りに就こうとしていた。
仕事の悩みなど、地球の記憶からすれば砂粒どころか塵にも満たぬなぁ。
だからこそ、愉しいに限る。