久々にデジバカ日誌だ
ボケるのでと突っ込みたくなる、レンズの日々・・・
涼しい日々が少々続くなあ・・・と思っていたら
窓の外から、なんともはやなやましい
あの初恋のような・・・記憶の彼方にある
あの淡い恋心のようにタマラナく
すこし粉っぽくて、切なくて
それはもう甘酸っぱい香りが漂ってくる。
もはやキンモクセイが花を開いているのであった。
夏の暑さの間、今か今かと待ち望んで、まさに今
涼しい秋になったぞ!と直感的に花を開いたようだ。
といっても、別に長男が恋にふけっているわけでなはくて
我ながら、実に残念だ。
しかし、残念とはいえ、季節は秋である。
週末のお買い物で、とっても美味しいものを発見した。
というか、見直した?と言うべきか。
デジバカシリーズではあるが
まずは栄養源、ウマ肥ゆる秋にふさわしい食欲系ネタであった。
この牛乳は乳脂肪を3.7%も含んでいる。
と驚くものの、思えば、小学校5年生のころ、3.3牛乳があったから
二十年以上かかって0.4%進化したことになる。
乳脂肪は人類には使えない、ダイエタリーな脂肪である。
だが
ダイエタリーだが、慣れない人類にはゴロゴロ源となってしまう。
ゴロゴロ源となるといっても、飲むとたちどころに中年化し
休日、何もすることなく家で座布団を二つ折りにして
寝るともなく、テレビを見るともなく過ごしたくなる・・・・のではない。
そう、覚えのある人は、思わずヤナ思い出のヨミガエル
あのお腹のゴロゴロ感であった。
長男は何と言っても給食大食い王として育てられたのと
我が血筋初の長男であるから、長男の名にふさわしく
長い男として、背が高くなるように、牛乳豊富に育てられたのだ。
けれど、誤解してはならない。
乳幼児のころは、完全母乳である。
人間は人間の母乳で育たなければ、大をなさないのだ。
結果は・・・?
牛乳豊富というコンセプトが
オヤジ殿が丑(ウシ)年であったからかどうかは未確認だが
いわゆる合格点である170センチ・・・を超えることはなかった。
169センチ・・・微妙な線ではあったが、履物を履くと170センチ
悩ましい長男となってしまったのであった。
牛乳の脂肪分の話から、またしても大きく脱線してしまったようだが
小学生ならいざ知らず、我が歳、三十台後半ともなれば
無脂肪牛乳などを飲んで、カルシウムを補給し
日々のサラリーマン生活において、キレにくい、穏やかな精神を
モノにするため、牛乳を飲んでおられる方も少なくなかろう。
もちろん、健康のためでもある。
あれから二十ン年、脂肪分が3.7%になって驚いた。
このコク、甘味、まろやかなマッタリとした下触り!!!
しかも、飲んだって腹にたまらない脂肪分!!!
なんて幸せな飲み物だろう。
別段安くはないが、とはいってもディスカウントショップで
160円を下回る価格。
最安値が二本で300円だから、極めて安いことに変わりはない。
都会は嫌いだが、牛乳は安いのであった。
さて、豆乳も好きだが、牛乳も好きとあって格別の長文化が
余儀なくされてしまいそうだが、今回はデジバカということを
思い出しつつあった。
あらためて牛乳写真を見て欲しい。
とにかくピントが合ったところが少なくて
背景がすごいボケッぷり!思わずナンデヤネン!と
つっこみたくなるほどのボケである。
これこそ、以前紹介したアコガレのCONTAX純正の
「カールツァイス」マニュアルレンズの仕業であった。
ズームレンズだと、最も明るいレンズでF2.8だが
この無理やり取り付けたツァイスレンズはF1.4である。
専門的に言うとシボリ3段違うわけで、デジカメ的に言うと
ボケ方はデジカメと比較すると数倍ボケるわけである。
プロ的に言うと・・・
よく分からないが、ピントが合わない部分が多いのを利用して
ピントがピンポイントに合う部分を厳選するレンズとして
厳格なピント合わせに使い
ピントを合わせたあと、しっかり絞って
ピントの合う領域をコントロールして画風を整頓してから
より鮮明な画像を写すのだ。
ボケすぎず、鮮明すぎず、場合に応じて使うわけだ。
ボケるというとシャープではないようだが
シャープであるかどうかは、レンズ本来の性能次第。
やはり高価なレンズはすごくシャープである。
ボケる部分はボケるが、ピントが合っている部分は
素晴らしくシャープというのが、名のとおったレンズなのだ。
まあ、こういった開放F値の小さなレンズは
ボケ味やら、開放で使ったときのシャープさが
通としてはウンチクを述べたくなるところだが
僕を含めて、そんな世界に住まない人間には無用。
ともかく、高いレンズにはそれなりの訳があり
明るいレンズにはボケ味というツッコミも無用なほど心地よい
被写体のまわりの不要な風景をボカしてくれるという
マジックが備わっているのだ。
ちなみに、レンズの価値というシャープさは
どういったところで見分けるか?というと
その辺にある、極手ごろな値段なのに高倍率の双眼鏡や
望遠鏡、それに、デジカメやムービー用のテレコンバーターレンズに
見ることができる。
何かしら、周囲がぼんやりと言うか虹色に見えるなあ・・・と思ったら
それが「収差」というものである。
最も分かりやすいのが色収差かな?
画像の周りに行くほど、風景の輪郭のまわりに、鮮やかな
ピンクだの空色だのが付きまとうのだ。
これは、色収差という、安価なレンズに現れる現象。
レンズは中心部を重点に作られているので、周囲はおろそかになる
というか、全域で素晴らしいというのがムヅカシ過ぎる技術なのだ。
さて
明るいレンズを買った理由は、暗いところでも、オモシロイ写真が
撮れないかな?と思ったところからだが
一方、暗いところでもシッカリ撮れるレンズはないものか・・・
と買ったレンズもある。
交換レンズと言うのは、全く悩ましいものである。
選択肢が沢山あるだけに、悩んでしまう・・・。
以前、小笠原に持っていったり、大東で鯨の映像をとらえた
我がビデオムービー機材こそ、キヤノンの技術を結晶させた
手ブレ補正を持っていたのだが、今回はカメラ用である。
ジャイロで手元のプルプルを検出し、レンズ内の機構によって
手ブレを防いでくれる、ありがたいレンズがあるというのだ。
もちろん、手ブレと引き換えに、電気は食うわけだが・・・
それがこの28〜135mm IS USMである。
ISとは、イメージスタビライザー、画像安定屋というレンズだ。
USMはピントを合わせるのに、超音波モーターを使うということだ。
ウルトラソニックモーターの略称だが、それは手ブレとは無縁だ。
この手ブレ補正は絞り2段分の働きがあるというのだが
長男にも、まだこの2段分の感覚はつかめない。
一番明るいF3.5の二段分・・・というと
F2.8の半シボリ暗いから、二乗して半分ということは
つごうアレコレF1.8・・・ということで
その明るさのレンズしか使えない状況ながら
普及レンズ領域のF3.5以上で使えるということであるから
普通より被写界深度(ピントが合う領域)が多い状態で使えるわけだ。
難しい話を抜きにすると
要は、暗いところでも、ピンぼけが少なく
鮮明な画像を撮影することが可能であるということだ。
シボリを絞り込めるというのは、鮮明な画像を得るということなのだ。
すごく単純に言うと、F値が高いレンズは
鼻からピンとが合う領域が多く、ピンぼけが少ないのだが
もともとレンズと言うのは明るい限界で使うと辛い。
つまり、レンズのF値そのまま使うと性能が出にくいから
少し絞って使うのだが、その余裕がないわけだ。
ピントが合っているならいいじゃない?暗いレンズでも・・・
ということもあるだろうが、レンズの性能が悪いと言うのは
ピントが合った状態でもボンヤリしてしまったり
色がモノトーンになったりするやつまである。
性能が良いレンズでも、限界よりチョイ絞って使う
これが粋で通な使い方なわけだ。
長男がキヤノンを選んだ理由は他でもない
絞り込みたい・・・・というのが理由なのだった。
こういったこともあって
手ブレ補正レンズとは、人類とって偉大なレンズなのだと
信じて疑わないわけである。
ともあれ
本来の明るいレンズというのは
こういったタマラナク美味しい
サーロインステーキ肉を使った料理に最適だ。
アツアツの料理が出来上がって、撮影したいと思っても
はたと気が付く・・・部屋、片付けてない・・・
しかし心配は無い。
明るいレンズはピンとが合う領域が少ないから
背後は勢いピンぼけになる。
あの突っ込みたくなるボケップリがここで生きてくるのだ。
片付けなくても美味しそうな湯気の出ている料理が
すぐ撮影できて、熱いうちに食べられる幸せ。
それはもう、撮影者と料理人のダブルミョーリに尽きるわけであるから
日々歩みつづける人生のなかで、宝くじ10万円当選に等しいほどの
アタリ実感あるラッキーな瞬間なのである。
もちろん
その料理が自分の感覚を信じて作った創作料理であれば
一等の前後賞当選に限りなく近いアタリ感だろう。
(ステーキ肉とアスパラ、シメジの秋炒め)
そげな、オーバーな・・・と思われるかもしれないが
それくらい感激してもヨロシイくらいの瞬間だと長男は思う。
人生における貴重な瞬間、その瞬間には感じることが少なくても
あとで思い起こすと、とっても大切な瞬間だったりするわけで
その何気ない、実は後から思えば宝くじの比ではない貴重な人生の一幕。
その瞬間を、何気なく写して、後から思い起こせる・・・
これがデジタルの素晴らしいところだ。
とにかく、何か感じたら撮る、失敗した!と思ったら撮る、
あれ?と思ったら撮るのである。
歴史の良し悪しが歴史の最後に出るように
人生の素晴らしい瞬間は、後になってみてはじめて分かる。
その瞬間を、今は感じなくても、嫌かも知れないけれど残す。
色あせず、鮮やかに残す。
これがデジタルカメラの素晴らしいところである。
長男は大東島に通い始めて感じた。
島は不便だ。
原付が不意に止まったら、公衆電話もないし
どこに電話をしたものだかわからない。
もしかするとまだ原付が動くかもしれない。
だが、こういった、便利な都会には無い状況こそ、旅の楽しさだ、と。
確かに順当で当たり前な筋書き通りの旅をしたいなら、楽しめない。
しかし、もともと、僕の旅は、旅というより都会に無い生活だ。
これくらいは何のそのでなくてはイケナイのだから
これこそ、待ってましたとばかりの、都会に無い「在り難き」瞬間だ。
だからこそ、残すべきなのだ。
愕然として、不幸のドン底だ!!!と思ったときほど
大自然の中では何でもなく、人生においては愉快な瞬間でもある。
ヤバイ!と思ったときほど、後の人生に役立ち、しかも笑えるのだ。
これほどの瞬間を逃すことはないわけで、それを残せるのがデジタルなのだ。
大切なのは、二度と繰り返さないこと、そして、人生を笑って生きられること。
人生のドンゾコとは、後から見れば、実は思ったほどドン底ではない
そんなものだ。
冷静さを取り戻すためのカメラ
冷静さを取り戻す前の笑える自分を撮るカメラ
素晴らしい道具ではないか!
デジタルは、現像も必要ないから、人の目にも触れない
こっそりと、時分の心の傷が癒えるまで、事実を寝かせておける。
嫌なら消してしまえばよいし、思い起こすならジックリ見てみればよい。
デジタルカメラの映像は人生の嫌な瞬間を、良い思い出にする魔法がある。
嫌なときこそデジカメ、取りたいときに素直にデジカメ
鮮明な記憶以上に鮮明な画像、素晴らしい機械でしょ?
デジタルは時を越える魔法のアイテムです。
忘れたい事こそ、記録して、こっそりと貯めて起きましょう。
きっとあなたの未来に、やさしく微笑んでくれます。
本当の自分を振り返るワンシーン、あなたは撮りそびれていませんか?
過去の自分の不運を笑える余裕・・・・・案外と大事です。
夜なのに三脚なし・・・手持ちで
こんな画像が写せる・・・手ブレ補正レンズとは偉大だ・・・
あくまでも技術本位な長男であった。
ではまた