「良い子は大切な命で遊ばないようにしましょう」
親がくれた大切な命、つなぎこそすれ、途切れさせる努力など
長男たる、まして、当家において初の男子である僕には、断じて許されんことだ。
が、どうも当世の人間は大切にフニフニな根性で育てられてしまって
僕も本来の頭首たる立場をそれてそれて、そのことすら忘れて生きている。
しかし、ある時ふと気付く・・・。
命の重さって、自分の生きる意味って何だろう。
もうバカ(無意味)の頂点であるが、誰もが何となく感じることでもある。
自分が生まれた意味などあるほどの、立場の人間か?
自分が死んだら国が滅ぶのだ・・・といった立場か?というと
生まれながらにして背負う物が当家の真の長男ということ意外ないのだ。
長男ですらそんなものだから、次男であれば「長男がクタばれば俺が頭首だ」
といった向上心はあっても、三男以降、もしくは女性に至っては社会的にも
背負うべく奇妙なシキタリとか、無理な非人道的道理などは日本にはない。
まあ、オヤジが一代で築いた巨大企業の2代目社長を担う息子もそうだろうが
そういった向きにも優秀な血筋以外の人材による救済はないではない。
本来、意味があって生まれてきた人類などありはしない
もし、それがあるのなら、恋愛関係の相手の存在を信じたいときとか
宗教として創出された歴史における要人もしくは創始者、使徒くらいだ。
意味、それは次代への命のバトンタッチ、これこそ最初で最後の意味でしかない。
けれども、あと数十億年後には地球自体の命の火も陰りが見え出す。
この世界が、ビッグバンの繰り返しでリセットされるのなら
意味の継承など、この物質世界にはあり得ず、それこそアストラルプレーン
ともいうべき、精神の、あるいは物質より自由な、思念に開放された場における
存在の継承(時間、もしくはその概念が存在するの上での事だが)によってこそ
我々の考える「時空間」を超えられるのであって、普通は全く、全然、絶対、
完璧にあり得ないのである。
だから、自分という存在への意味など、自分、もしくは生みの親以外に知る由もない。
・・・・・・・・
さあ、かってー話(硬い、堅い、難い?はなし)は別として
人生が行き詰まったとき、一番感じるのが自分の存在を確かめる方法であり
そして一番、短距離で、近道で、直球な「命の感覚」を感じたいという衝動である。
僕は髪の毛が抜け始めたとき、カッコ良さ・・・ってのは自分じゃないな
と悟った。
カッコつけたい・・・というのは自分のウワベによって
相手に、自分(中身のこと)以上の印象を与えようとする
なんというか、稚拙な衝動だったのだなあと気づきつつ
まあ、カッコ付けられて、ダマしつづけられるにこしたこともナイカナ?とも思った。
そして、そのころ、会社での繰り返しで進歩を感じない生活に
自分の生きる意味が分からなくなって海へ。
荒波の時にしか釣れないヒラスズキを狙いに行く、という口実の上に
自分の生きよう!とする気持ちや、死への反発感があるのか?を試しに
和歌山へ出かけ始めたのであった。
夜明けの薄暗い荒波、荒磯は恐ろしく
最初は釣りどころか自分をそこに居させるだけでも大変だった。
なれてきた頃、初めて命の危険と少しだけ相まみえた。
満ち潮の波浪の磯で、渡ったあとから波が上がってきたのだ。
帰ろうにも、帰りの磯はもう海に帰ろうとしている。
もちろん、荒波とともにあるのだ。
ヒラスズキは通常、波浪2〜3mくらいが釣りやすいというか折り合いどころである。
それ以上だと、釣るより死ぬ。それ未満だとヒラスズキが居ない。
そのときは3メートル程度だったが沖合いの漁船が木の葉のようにホンロウされていた。
南紀(紀伊半島の南部)の漁師は気丈である・・・。
それを見つつ、しかし、目の前に広がる広大なサラシ(白い泡)に酔いしれ
ルアーをそこへ投げこんでいた。
が、気付くと、飛び石状の岩の帰り道が荒波に沈みかけている。
「帰らなければ!」そんな時、救助を待とうとは思わないものだ。
こういう場面に出逢い、命を削ってみたい・・・などという
貧弱サラリーマンのオロカナ計略とは別に、本当にそれはやってきた。
飛び石を1/3まで飛び渡った時だった・・・。
波が太ももまでやってきて、岩に乗っている足がズズズルっと
ほんの10センチくらいだろうか30センチくらいだろうか、今にして思えばわずかに
体ごと流されたというよりは、波に押されて流されそうになった。
そういった瞬間の反応はスゴイ。
まず、沖から来る波が大きいので、もうダメだ!と決心しつつ
継ぎの岩へ渡ることをやめ、流される!と思いつつ波を受ける決心をし
波に身構え、足を踏ん張るのだ。(ほとんど多分、無意識だ)
その間一秒足らずだ。
そして波を受け、体が岩の上でスライドする瞬間・・・
つまり、ダメだ!と思った瞬間、大切な人の姿が脳裏に
そう、順繰りに浮かぶのである。
あの、不思議に体が勝手に体勢を整え、波が通過する直前までの間の
一秒未満の時間、それは次々と人が現れるものであった。
これが、走馬灯。
波に流されかける瞬間は、その流される自分の足を眺めるというか
じっと流れる様を見つめてしまうもので、そのときは走馬灯は消えている。
おそらく流されたとき次に行うための動作を無意識に待っているのだろう。
不思議と波に耐え、さらわれずに済んだ僕は
もう、無が夢中で、波に洗われながらも残る、岩の頭をたどり本土へ帰ったようだ。
死にわずかでも接して考えること
それは、まぎれもない自分の心を写している。
ああ、自分にはまだ、思う人がいる、大切な人がいる
そして、生きようと頑張る自分がいる・・・。
しばらくは、その感覚が生きているが、時と共にうすれてしまうので
つい、また、出かけてしまう。
問題は、人間は「慣れる」ということである。
今は、生きる意味など自分の存在の意義など、既に考え至っているが
しかし、サラリーマン生活は意外に閉鎖的である。
だから、そのなかに居ると、スケール感が狂い、つまらない小事が
自分の中で大きくなっていく現象がおこってくる。
その感覚をリセットするのに、今は南大東へ行っている。
4階建てのアパートの屋上から見下ろすような岩壁を
特別な装備などなしに、釣具を背負って下り
釣れたときは数キロの魚をサンタのように背負って、片手で登る。
当然片手なので、揺れる数キロの魚のおかげで、体はホンロウされ
「ああ、今ちょっとバランスをくずしたけど、岩をつかめなかったらどうだろうか」
と思うこともしばしばである。
島の人も滅多に来ないポイントを開拓しつつ、楽しい釣りもしているが
釣れない時ほど、無闇に体力を消耗してルアーを投げつづけ
幸い釣れてしまったら、その魚ごと自分の体を崖の上まで届けなければ
宿へ帰るためのバイクにも辿り着けないのであった。
帰ってきている、そして、無事であること
これこそが意味であり、自分の実力である。
バカであることは分かっているが
自分を試し、想像のつかない自然に自分を置いてみて
時折、自分の命の「死にたくない、まだ生きてやることがあるんだ!」
と思えることが、エネルギーになっている。
とともに、会社や社会での出来事の判断基準にもなっていて
「この程度のことなら、命は関係ないだろ、だから悩んでも、冷静に・・・」とか
「政党が命がけですだってどんな風に命をかけてるんだ!?」といった緊迫感への
尺度もしっかりしてくるような気になる。
ま、自分の命と可能性を極限まで試すなら、フランス外人部隊に入隊し
どこかの国の内戦で戦うことだろうが、それでは自分が虚しくなり
戦争における人類の闘争心と興奮の実体験はあるものの
その発生における意味の本来的な稚拙さに気付くだけだろうから
それはそれで極限もツライだろう気がする。
所詮、人間のいきつくところは大なり小なり歴史通して皆同じであるのだから。
少なくとも、自分を試すなら、数々の試練や、前向きの提案もあるだろうが
命の限界を見てみる・・・というのも、良いものではなかろうか。
安全の確保された「スリル」などとは程遠い、心の命の大切さと
自分の生きようとする力の根源が見えてくる気がする体験ができるはずである。
ただ、
ただ問題は、
人間 ・ ・ ・ ・ 何事も慣れてしまうことである。
どのような危険も同じような事が繰り替えさえれれば、慣れてしまう。
これこそが真の危険であった。
簡単に言えば「死ぬまでは生きている」という感覚で
1000mいっきに落ちているガケっぷちだとしても
落ちなければ死なないので、踊っても平気だ、といった感覚に至ることだ。
(落ちてもイイかな・・・と思う海もある)
実際、そこまでは遠いものの、あれほど危険と感じていた
南大東の荒磯の上り下りや、ふとしたバランスの崩れに
年齢による?体力の低下を感じつつも
「今回は助かってラッキー!」などと、しがみついたガケの下の
遥かな波音を聞きつつそう感じたりするのは、極限とはほどとおくても
その入り口に立っているとも言えなくもない現象であるので
もうちょっと ・ ・ ・ ・ 気をつけなければ ・ ・ ・ と
長男ソウル、ウルトラ長男ソウルを忘れないように
自戒する今日この頃であった。