ジャーナリズムとSNSと人々の気持ち

 


 

遠い世界と近所の世間話

 

エボラの治療に奔走するチームが、ギニアの土人に襲われて8名が死亡した。

おそらく白ンボたちにとっては、黒ンボたちを奴隷にした負い目があるので、今更挽回しようというのだろう。

当地は土人が奴隷として輸出されていった、歴史的な地域である。

フランス人にとっては、殺されても何の文句も言えない歴史がある。

ただ、ギニア人が未だに土人をやっており、デマで行動するとは、・・・アフリカの貧困の深刻さを思い知る。

 

国内のデング熱も収まらない。 意図的かどうかは別として、思わぬ広がりを見せているようだが、

今のところワクチンも存在しておらず、地味にキケンなウィルスである。

 

仁川のミントンで、また半島人がやらかした。 地元で勝つために手段を選ばなかったワケだ。

万が一、事実無根だったとしても、まったくもってヤリソウダと世界中から信じられているところが愉快だ。

政治家の癒着過ぎに向いた目を逸らすには、スポーツだ・・・ キムチを食らう連中なら間違いなくヤル。

不正バレバレな官僚たちがあふれ、韓国政府は立ち行かなくなっているから仕方あるまい。

領土侵略やウソッパチ慰安婦の問題の無駄なツッコミでもない限り、オトナのポン人としては・・・

頭の悪い隣人に、少しくらい目をつむってやる余裕があっていい。

スポーツは、直接模擬戦闘である。 そこで本気を出せば・・・どうなることか。 平和主義が泡と化す。

 

私たちは、察しと思いやりに満ちた至高の民族であり、あくまでもオトナでなければならない。

 

イスラム国という武装組織がある。 国家とは程遠いが・・・軍事的に秀でた組織であり武装は豊富だ。

だからといって、統治できるわけではない。

彼らのイデオロギーは、神の教えを守ることと、敵と戦い続くけること。

おそらく、転地が逆になりイスラム国だけになったとしても、派閥分裂してまた戦い続ける。

戦い続けることに意味があるわけでなく、組織として戦い続けることが目的なのだ。

それがニンゲンの本能だからだ。

 

国連で、ロスケの外相がメリケンのシリア攻撃を批判した。 ウクライナを棚上げしすぎて噴きだしてしまった。

ロスケもチャンも、あのへんの中緯度以上の民族は、あ〜ゆ〜恥ずかしい感じで平気らしい。

国際法とか関係ない連中が平然とそれらを口にするから笑えてしまうが、ワライゴトではない。 

組織的に戦うことこそ、本能ということを裏付けている。 法があろうとなかろうと、戦いたいのだ。

それは武器を交えることだったり、外交であったり。

 

だた、イスラム国が戦うなら、まずイスラエルとウィグルが相応しいのではないか?

 

ところで

普天間の移転はなぜ必要になったのだろう・・・ もともと普天間基地のまわりは都会ではなかった。

メリケンのグンジンサンをあてにしてやってきたウチナーンチュがはびこったために、基地の周りが都市化。

好き好んで移り住んだ先代を棚上げして、被害者面している子々孫々。 チャン人気質っぽくもある。

あたかも、都市の上を訓練飛行するとは何事だ!のように述べているものの・・・ それは違うだろうに。

ただそれを、内地人が責めるわけにも行かないし、メリケンの属国であるポン政府にも拒否権はない。

 

辺野古は美しい海岸である。 環境への影響が少ない・・・などと嘯いても無駄である。

少なくとも、半径10キロにわたり、潮の下流にあたる地域では土砂の汚濁で海岸が影響を受け、

サンゴ礁が激減あるいは死滅するはずだ。

なにしろ我が天城町とても、徳之島ダム建設によって濁流が日常化し、天城町の沿岸はサンゴが激減し、

悲惨な海岸となっている。 漁業が立ち行かなくなったのは、なにも頭も腕も悪い漁民のせいだけではない。

時間は止まらない、けれど、ただ進んでいるわけでもない。 自然は、違った方向に進み始めるだけだ。

 


 

朝日がやらかした、勧告の世論誘導。 国益にとって、いや日本人の存在自体を攻撃した新聞社。

そもそも、朝日は文字を軽んじているのではないだろうか。

そもそもジャーナリズムとは、真実を伝えることではない。 意図した風に感じるよう組み立てたレポートだ。

この青は、私の思い込みだから、私が信じている世間のウソ?も私にとっては真実なら、そのように載せる。

別にジャーナリズムでもないので、好き勝手である。 さすがに、無責任というわけにはゆかぬものの。

 

朝日がダメだというのは周知の事実となったわけだが、それでも入社希望者がいるのだから、

困った社会である。

サムスンはもっとも嫌われていながら、もっとも高収入で希望者の多い企業・・・のようなものか。

冷え切った景気が蔓延しているような雰囲気、格差社会になった今、背に腹は代えられぬ。

アベノミクスは、貧しいものからカネを吸い上げて富めるものを増やしているだけのことだ。

働き方の自由度は増してはいない。

非正規雇用の安月給に与える、消費増税の打撃など屁とも思ってない。

働く人らが報われる社会にならねばならないが、働き方は厳しく、限定される一方である。

教育も医療も同様に、未だ画一化こそ合理と信じている社会。

私もそう思うが、一方でマチガイにも気づく。 義務教育を高度化して国民力を高めたい意味は解るが、

ついていけない子等が増えていくのも事実だ。

もっとのびのび教育し、人格がある程度形成されてきた高校からツメコムべきだろう。

 

さて

大会社なら、自分だけが目立つこともないし、自分だけが責められることもあるまい・・・という

人生の安全策を考えて、人生の舵取りする時代になった。

反比例するようにネットのカキコミが派手になった。 外では自尊心を抑えておいて、SNSで発散。

なんかもう、本音と建て前が激しい社会になったようにも思う。

島ではそうでもないのだが・・・ 島はまだ年功序列、男尊女卑、多世代同居が根付いているから。

 

先ほどの世相を招いてきたアベノミクスが、目立たぬ連中に向かって実力主義を促そうとしている。

それはムリだ。 そうでない方向性を示したのに、急に逆方向である。

突出した能力があってもなくても働ける社会、あったらあったで活かせる社会が必要なのだ。

実力主義か年功序列か・・・という二択がそもそも間違いの源なのだろう。

資本主義か社会主義か・・・のような、イデオロギーにも起因しているのかもしれない。

確かに、高度な考えを持たぬ民衆に理解させるのには、選びやすくする必要がある。

 

これまで、情報伝達が限定されていた時代には、テレビや新聞が大きく世間をゆさぶる情報源だった。

教育現場のやり方も、文部科学省の一系統でなんとかなったが、今や子供たちの千差万別に困っている。

そこで、地域にマルナゲする方針を出し始めているのも、子供らの情報が逐次入るようになったからだ。

 

情報による情動で、ポン社会はどんどん加速度的に変化が早まっている。 

 

とはいえ

相変わらず、誰もが発信者になれるわけでもないことは、SNSをやって痛感している方も多かろう。

共感してみせたり、いいね、してみたり、たまに写真を載せるだけの自分・・・

現実で冴えないニンゲンは、ネットでも冴えない現実に怯え、掲示板で暴言を吐いてストレス解消したり。

 

私は、この青でストレス解消の場を早くから設けてしまったので、あんまり悩まないが、

文章表現したり、頭の中を整理することに慣れていない人は多かろう。

必ずも整理しきっておく必要などないが、ある程度整理しておくことは、オトナとして大切だ。

 

もし、まだ大企業にいたとしたら、世間についていくのは大変だ・・・などとゴカイする世代になっていた。

ニンゲンのDNAの現実的な保証期限は40年程度だから、能力も脳力も激しく低下していく40代。

高齢化社会においては、働き盛りと迷信されてきたが、生物的に能力が日々低下しているのに

世間の期待は高まる一方となり、必然的にもっともストレスが増大する世代だからだ。

北欧では40代で一旦リタイアする向きもある。 それは実に正しいと、今頃気づいたわけだ。

 

私たちの社会は、情報伝達が早まり、外部情報で能力を補うことができるが、老いが止まるわけではない。

いくら高齢化が進んでも、老いが遅くなるワケはない。 ただ、生まれる人が減っただけのことだ。

 

脳年齢はごまかせない。

そうした老齢脳力者が増えた矢先に発せられた、無意味な世論誘導が朝日の報道だった。

従軍というか、軍隊の行く先々に追従した商売慰安婦は居たはずだが、強制労働とは違う。

そこそこ儲かったことだろう。

だいいち、強制的に慰安婦化されたような女子と性交することに、どのような心地よさがあるのだろう。

戦い疲れたあとで、嫌がったり、放心状態の女子を抱いたところで、何の快楽が得られようか?

断然、プロの方が快いに決まっている。

考えればすぐわかることだ。 戦いの場に性欲の捌け口の無駄な女子を連れ歩いて、勝てるわけがない。

軍隊にそれほどの余裕などない。

ローマ時代から江戸時代に至るまで、女子を連れまわして戦争に勝てた支配者などいない。

 

南キムチの連中も連中だ。 フィリピンでセックスし放題で、子をはらませておいて認知しない。

コピノと呼ばれる、父親不在の貧しい混血を数万人も生んでおいて、昔の慰安婦問題で図に乗る。

しかも国家が捏造された情報に乗ったわけであり、今更引っ込みもつかない。

本来なら、存在しなくてよかったと喜ぶべきところだろうに、国策として居て欲しいように振舞い続ける。

 

私は伝えるということは下手である。 常に、私が感じたように、あるいは思うとおりに伝えている。

ジャーナリズムとは、どういうことか・・・といった哲学については、メンドクサイので書かないものの、

事実=現実と真実と報道は、まったく別の事柄である。

たとえば、ゲリラの側から、ステルスに爆撃される立場で撮影された映像を視れば、心は動く。

真実とは信念の問題であって、ひとそれぞれの心に形成された自分にとって好ましい事実のことだ。

だから、真実というコトバも今回は無用としておこう。

 

報道とは、様々な角度でなされなければならない。

が・・・スポンサー費も限られるなか、制作費を抑えるために、都合よく切り取られすぎている。

このごろの報道番組などNHKも含めて、ニュースキャスターが意見や怖いですね〜などと述べている。

アレは明らかに報道の原理に反している。 アレと同じことを、さも勿体をつけて述べているのが社説だ。

 

このごろのメディアの報道は、ほとんどが世論誘導に用いられている。

スポンサーの後ろに政治屋や権力者がいるのは、今も昔も変わらないが、より意図的になった。

それを劇的に利用したのが、ウソのアポロ月面着陸や、自作自演の911だった。

 

私はメリケンは、ニンゲンより高い位置から地球を眺めているヤツラに支配されていると信じてる。

そう考えれば、ツジツマの合うことが多いからだ。 あるいはロスケもだろう。

ただ、そうしたことは、情報としては統制されて、流出してもデマとされ広がることはない。

 

私たちは、自由に生活しているようでいて、大きな力に操作されて生活している。

それを崩すことも、形成することもできるのが、ネットである。

ネットのにおける一般人の情報発信は、情報というよりも、情動が記されることがほとんどだ。 

報道のように、何に気を使う必要もなく、利己的に、意図的に情動を発信できるメディアである。

信じるかどうか別として、信者が増えれば真実が形成されていく。

情動は、強い共感を呼びやすい。 無論、反対に非難も浴びやすいが。 

 

新聞やテレビでみて、口伝てに世論が形成されていた社会から、

直接、情動をネットで発信し、時々刻々と反響が広がり世論形成する社会へ。

 

そうした情況に対する危機感や焦りが、朝日の暴挙を招いたのだろう。

ネットよりも大きな世論を造りたい欲求を満足させるために。

国内世論を揺さぶるには、国際問題がモッテコイだったのだ。

 

たとえば、私が営む島のブログは、私の身の回りにいた動物のことだけを伝えている。

植物はほとんどないし、脱線は多い。 町内のイベントを載せるわけでもない。

視点が狭いから、そのようなニーズの人にしか読まれない。

ボランティアというか趣味だから、200人そこそこの読者であっても問題はない。

むしろ、それだけいらっしゃることが嬉しい。

 

新聞社は売り上げを上げねばない。

あらゆる事柄について、常に早く、広い視野で望んでいる・・・風に思われる必要がある。

しかしながら、常に早く・・・は実現できなくなった。 こと島では、新聞は昼に届く。(笑)

テレビにスピードで負け、ネットにスッパ抜かれ、形無しである。

 

そうなれば、国民を大きくゆさぶる世論形成くらいしか、残された道はない。

全国紙だけに、全国ネタを欲しがるような視点の富裕層?を誘導することに特化するしかない。

地方では、全国紙はそれほどシェアが高くない。 

島で朝日新聞をみかけるのは、とても珍しいことだ。 UFOに匹敵するくらい?(笑)

ほとんどが、南海日日新聞である。 たまに奄美新聞。 全国紙の情報はテレビが早い。

島の場合、非ネット人口がとても多いから、地元新聞に勢いがある。

ただし、前述のように届くのはあくまでも昼。(笑)

 

ゆえに、政治屋や政府と共謀して世論形成に走ることも多くなる。

ネットに対抗し、売り上げを伸ばすには、そう簡単にアクセスできない情報やら、

一般人が踏み込めない情報源について追求し、記載するしかない。

 

島で気づいた、面白い現象がある。

南海日日新聞は、計10ページしかない。 なんと半ペラが真ん中に入った、二枚半構成である。

そうしなければならないくらい、懐が厳しいこともあろうが・・・島社会の情報は満載だ。

もちろん大事件なら、全国のネタも載っている。

ほとんどが奄美群島の記事で埋められていて、身近な社会の出来事を十分知ることができる。

内地にいたころ、こんなローカルな情報なんて、なんの役に立つのだ?と信じていた。

島に住んでみると、内地の情報など微塵の価値もない事柄がお多い。

東名高速道路のトンネルで大事故があったとしても、死傷者のなかに関係者がいないかのみ問題で

事故の詳細が明らかになったところで、島ではなんの役にも立たない。

高速道路もトンネルもないからだ。(トンネルは1つだけある)

情報の価値は、距離が遠のけば意味を失うが、島は相当に内地とは遠い存在なのだ。

 

おそらく、首都圏から遠いほど、地方紙が強いのではなかろうか。

全国ネットの情報なんて、世間話のネタくらいにしか役立たない。

むしろ「無駄な知識」と断言しても無理はなかろう。 無駄のカタマリとなっているのが全国紙だ。

首都圏など、都会ほどニンゲンが多いから事件事故も多発するが、その多くがクダラナイ理由だ。

仕事上、企業人としての姿勢上、世間の話題に通じている必要があったが、今は違う。

 

客観を形成するには、広範な情報が必要であるが、むしろ島から見たらポン国内も台湾も、

面倒なチャンやキムチの連中も等距離に近くなっていく。

 

資本主権社会では、情報による情動=ムードが経済を左右する。

生産とは無関係な投機で、富のためだけのマネーが動く。

ゆえに資本(≒権力)が報道(≒情報)を動かす、と表現しても問題はなかろう。 

大きな動きを形成したい連中と組んで生き延びる道は、おのずと見えてくる。

その動きは、すでにテレビでも明らかに現れている。

次はネットである。 ネットは実に簡単な構造なので、支配しやすいだろう。

プログラムに発生させた多数のアカウントで、ランダムな言い回しで書き込みをすれば済むだけの話だ。

 

そこで登場したのがSNSだ。 いかにもそれらしい真実味の在るユーザーたちがあふれている。

が・・・ほとんどアクセスのないアカウントが、おそらく大多数を占めている。

確かに知り合いどうしのだまし合いはないだろうが、そこはそれグローバル意識を利用すれば簡単だ。

それを防ぐ仕組みが、国籍を無視して友達を無駄に増やしたくなるよう仕向けるインターフェイスだ。

フランス語、英語など操りやすい言語の通じる連中には仮想友人を発生させれば、世論は操作可能だ。

ただ、ポン人のように、閉鎖的で多様な発言形態を有する民族の世論形成は、そこそこ難しい。

言語の用い方で、年齢や性別が出やすいからだ。 擬似人格を演じるには難しい言語だ。 

そこで必要となるのが、古いスタイルの報道メディアによる、大胆な世論誘導だ。

 

太古より、宗教が人を動かす手段となってきたが、これからは派手な情報操作が加わる。

CGに合成、あらゆる手段で擬似情報が流される。 いや、すでに流されているかもしれない。

 

ただし

ニンゲンはそれほど鈍くはなく、人格のない言動や文字にはウスウス気づく。

だから、リアルで大胆に911のような事件を起こす必要があったのだ。 大きな情動の誘導を実施した・・・

この影響は、完全に世代交代する、あと80年ちかく維持できるだろう。

 

結局のことろ、今も昔も世論の誘導は、情動そのものを生み出すことに在る。

圧倒的なチカラによる恐怖をベースとするか、あるいは自発的に感じさせる誘導によるものか・・・

ある程度変化はしているものの、共産圏では前者がまだ強く、資本主権社会では後者が強め。

資本主権を貫くには、格差を許容させる必要がある。 あらゆる格差(≒変化)が利益を産むからだ。

自由と銘打ったコンセプトの情報や報道の誘導によって、世論は易々と動かされているのが現代。

 

生命は平等だ・・・といいながら、生存率=財力ではないか。 それが、ゆるがぬ格差社会、

資本主義(資本主権)社会における原則だ。

 

貧しかったから普天間基地のまわりで商売するために移転した、貧しいから津波が来る漁村にしがみつく、

貧しいから心のヨリドコロである故郷に帰りたい。

貧しさを自らの努力不足と感じさせることで、資本主権社会の源泉である貧民〜中堅世帯を維持させる。

それによって、富む権力者への従順なカネの流れが完全性を増していく仕組み。

 

イスラム国がやっていることは、無駄に増えた人類がたどりつく、帰結のひとつだ。

身内以外の無駄な命をつかって、情動を誘導している。

 

戦うこと自体がイデオロギーとカンチガイしている(本来は本能)ような連中にとって、

恐怖という安易で本能的な情報こそが意味を持つ。 だから、情報を用いて相手に揺さぶりをかける。

恐怖を用いることは原始的きわまりないが・・・即時性のあるネットを利用するところが現代風だ。

つまり、スバル360を電気自動車化するような光景である。 違和感はあるが、受け入れ可能な範囲内。

 

原始的な恐怖情報だからこそ、ネットにおいてもCGやデマでないと説得できる。

残酷であればあるほど効果が出る。

とはいえ、サクッと殺しているのは、不用意に相手の反撃心をあおらないレベルで寸止めしている。

彼らも一応ニンゲンであり、ニンゲンを殺すことを快く思うはずもない。 勢いで殺しているだけだ。

真に恨みを晴らす目的なら、少しずつ死なぬ程度に刻んで、なま殺しの情況を、ホラー映画さながらに

ダラダラと垂れ流す方が、恐怖の根は深い。

 

反面、サクッと殺すというコトは、さほどの目的意識や、恨みの念が深いわけではないこともわかる。

わかる・・・一応惨殺っぽいので、人類のうちどれだけわかったか・・・わからんけど。

けれど、あれは惨殺ではない、短時間で殺すのは恨みの念が希薄すぎる。

 

彼らはさほどの意志を持っているわけではないことが、あからさまに知れたのに気づいているだろうか?

子供の戦えといわれてきたから戦ってきたとか、戦うことに変化を求める好奇の心が動いてるにすぎぬ。

戦争することに期待しているだけであって、戦争を愉しんでいるわけではないのだ。

 

社会性を高度化させたニンゲンの生態を知っていれば、現象は簡単に分析できる。

長寿命化しモラトリアムが長くなったために、子供のような憧憬を抱く大人が増えた。

それだけのことだと判る。 科学と蓄財が進んだお陰で、ヤンチャ坊主が戦争できる世の中になったのだ。

各国の動乱好きなヤンチャ坊主の共感を得られる情報によって、イスラム国は成長したのである。

 

確かに、メリケンのやり口は、このところ度が過ぎる。

ウクライナを侵略したロスケや、国境に緩衝材として配置したウィグル人民を迫害したチャンが、

メリケンの空爆に対して非難する姿勢には苦笑したが。

もともと国際法などは、権力を手にした先行者利益を確保する掟としてこさえられた情報であって、

平等とは程遠い。

 

結局、今も平和だなんだと叫びながら、支配しているのは武力である。

平和主義者というのがいるらしいが・・・平和とはナンなのだ? 平和のベースは結局武力でしかありえない。

 

島でもそうだが、昔ゲンコツの強かったヤツが、今もずっと上から目線で話をする社会だ。

ニンゲンはもともと平和を望んでいない。 安定を望んでいるのだ。 平和は手段であって目的ではない。

平和とは、安定のあとの安寧の先に見えた架空の概念(妄想あるいは幻想)であって、理想ではない。

 

真の平和を望むなら、くだらない国家間競争の捌け口のオリンピックや、一律な教育によるテストの得点競争

なんてクダラナイことはやらない。 競争=闘争であり戦争の根源意識であるからだ。

 

ここまで述べれば解るだろうか。 闘争こそニンゲンの本質。

情報による自己の意思への賛同者を増やす行動は、原始のニンゲンの行動でしかない。

手段こそ違ってきているだけで、本質はなに一つ変わっていない。

だからどうだ・・・といわれたら、それだけだ。

 

逆に、だからどうしたいのだ?と問いたい。

資本主権社会において、アナタの幸せは実現されているとすれば、実現されない人らをベースとしている。

その現実を知らないフリし続けて、幸せ感を続けるのかどうか・・・である。

 

私は、情報を操作したい文章を載せることも度々やってきたし、今回もそれに相当するかもしれない。

ただ、このサイトは私は私がどう変わっていくのかを自他共に未来に確認したいから、青をやっている。

我が情動を記録しておいて、未来に確認したいから記述を続けている。

 

ネット情報を閲覧したり、新聞を購読できるのは、それなりに収入があるからだ。

そうでない人らを差別し、能力がないとか、こらえ性がないからと切り捨ててはいないか?

もともと生物は、楽して暮らしたい本能があるのに。

 

イヌネコを眺めればわかるだろう、なんぼ食っても、まだ食らう。

エサを野山で探し、追い回して食うのでなく、皿の上のフードを食らう、なんぼでも食らう。

貧乏していない連中が無駄に食らい続けているのが、情報なのだ。 情報メタボ。

わかってもいないのに、知ったフリできるチャライ道具が情報となってしまった。

 

ゆえに、避難指示など出されても、チャラ情報と同様の扱いになってしまう。

 

無駄に増えすぎた人類は、摂理によって死んで減る方向に誘導されることは、度々述べてきた。

最も簡単なのが、情報による情動への無関心化である。

ニンゲンは、身近に起きた自己の大勢に影響しない情報に好奇がある。

他方、マスコミの発達によって、大勢が含まれる情報については自身を含んでいても遠く感じ、

情動が起こらない方向に進んでいる。 画面の向こうは、自分とは遠い意識が発達してきている。

自分たちは含まれない意識が、どんどん発達しているポン人たち。

これが誘導なのか、結果的にそうなったのか知れぬが、私が人類よりも高見にいればそうするな。

実験とすれば面白いじゃん。 シムシティみたいだし。(笑)

広域に発せられていること=漠然としていて、自分たちは該当しない情報・・・という甘い意識構造。

 

誰が意図したが知らぬが、優れた摂理の実行原理だ。

情報重視の社会において、極めて有効な人口削減策だ。 なんといってもエコだ。

火山の噴火や大地震も不要、雨を降らせるだけで、ニンゲンを減らせる。

おそらく各個に他人をそれほど信じないで生活している人らは、こうなる運命と摂理は設定したのだろう。

 

結局のところ、都合のいい情報のみを信じ、そうでない情報は信じたくない。 つまり半分オカルトだ。

いかに優れたジャーナリズムがあったとしても、信じられなければ意味はなさない。

 

たとえば、台風のさなかに竜巻注意情報が出されても、外にでられないからダメジャン・・・ということ。

歩けようが歩けまいが、竜巻が来たら家族全員死亡する。

死んで初めてわかるだけで、台風のさなか逃げたくない意識が強いだけである。

ヌクヌクしていたい・・・つまり安定していたいだけなのだ。

 

情報はデマになってしまうことがある。 が・・・その根源は、そのようにしたい意志によって作成されただけ。

危機をあおる情報になることはなく、ただ誰かにとって、確実に矛先や実害がおよぶよう断定的に加工される。

 

報道も似たようなものだ。 デマの意識と報道は紙一重なのだ。

 

自分が情報源になりたい、情報で人を動かしたい、あるいは実力もない自分が大衆を動かしたい。

このことを、現代においては「悪意がない」とするだろうが、大間違いである。

ホモサピエンスが無駄に発達させた社会性を悪用して、チッポケな自己実現で大多数を誘導し、

死傷させるような欺瞞情報を流す・・・のは、殺人行為意外のナニモノでもない。

 

つい

世間話なのに、大げさにオモシロく演出したい向きが増えるのは、職場でへーコラしている人らや

社会的に低い地位にいる人らのストレス解消なのだから、無駄に人口が増え、格差が広がるほど増える。

 

マスコミだ、新聞だ、世間話だデマだと区切ったところで、情報は情動そのものであって、事実ではない。

事実であっても、事実でない可能性は大きい。 しかも事実は受け取る角度により多様に存在する。

 

宙に浮かぶ立方体があったとする。

四角い、正方形、六面体、アングルによっては六角形と伝わる。 見え方はそれぞれ、真実もそれぞれ。

正確でないにしろ、視覚的に間違ってはいない。

 

報道(ジャーナリズム)は本来、情動を招いてはならない。 それは立方体を六角形と言い切ることになるのだ。

ただ、報道とレポートの差が吟味されない現代において、報道もレポートも情動を促す手段となり下がっている。

 

半端に取材レポートしておいて・・・こんな雰囲気だけどヤバくないですか?みたいな報道モドキに満ちている。

 

これだけ情報行動が進化したように見えても、ニンゲンはサボりたい意識で満たされていて、短絡する。

情報が正確に伝わるなんてことは、おそらく未来永劫ありえない。 受け取る側次第だし。

 

すなわち、現代以降のジャーナリズムとは・・・ 一般市民の届かない情報をホジり出すとか、

危険地帯の情報を様々な角度で流すとか、コストのかかる難しいことばかり残されている。

ゆえに報道は、あくまでも誘導に用いられてしまう。

 

大きな情報と、身近なお祭りなどもナイマゼにして報道されることで、印象を薄める操作も行われている。

私たちは、スポンサーありきの報道の向こう側を、キッチリ見越しておく必要があると思うし、

ダマサレやすい隣人友人を見極めておく必要もあると思う。

いざというとき、そうした隣人友人とは違う方向を目指すべきか判断する時が来るかもしれないことを、知ろう。

 

ところで

このごろ南国の風情を感じている。

役場の向かいにある天城小学校で、エイサーの練習をしている。

私が沖縄に移住したかったのは、エイサーウドゥイを演じたかったからだ。 カッコイイ踊りである。

沖縄のように派手な民族舞踊のない徳之島。 だからついつい沖縄の舞踊を取り入れてしまう。

だが、それはそれで、文化とは別に演芸としては楽しめるのだから、演じたもの勝ちである。

私がエイサーを演じたかったように、子等もエイサーが好きになっている。

 

心地よいサウンドの太古をたたき、身近の人らの前でカッコイイ踊りを舞う・・・これほどの幸せがあろうか。

 

情報もヘッタクレもない、

現代人にとっても古来より変わらぬホントの心地よさ、家族や友人知人と自分の成長を共有する場が必要。

そういう場が減ってしまった。 ただ慣例としてカタチダケヤッテイル社会が蔓延している。

だから、一律の教育現場のテストを公表しない・・・みたいな無駄な隠蔽に至り茶を濁す。

 

誰もが自己の存在価値を見出し幸せになるためには、あらゆる様々な場が必要だ。

私はたまたま国家の一律な教育のなかで、なんとか具合よく通過できたが、そうでない友人は多かった。

上から目線で申し訳ないが、悪いが私はズル賢く、そこそこ勉強すれば点数を稼ぐことができた。

それができないというのは、オカシイとすら感じている。

 

それは

おそらく親から学んだ「実力」のプライオリティが異なることに起因していると感じている。

バカなのではない、親が得たチカラはバカでもいいからパンチで勝てとか、地元にいれば大丈夫だといった、

古い実力主義であって、現代的な能力主義とは異なる概念だったのだ。

今も、地方に至るほど、そうした傾向が強く残存している。 

都会だから存在していないわけでなく、都会に至るほどワカリヅライように隠蔽しやすい行為に変異しただけ。

より陰湿なパンチになっただけである。

 

楽して人の上になりたいという気持ちは、マチガイではない。

しかしながら、人の上に立ったら責任が存在することを、子らに教えておくことを忘れているのだろう。

しかも、現代では責任=金銭価値になりやすいから、ナオサラそれらの在り様を説明する責任がある。

 

だが、親たちは忙しさにかまけて・・・というか、かまけたいらしく・・・子に対する説明責任を怠り過ぎた。

その結果が、情報じゃぶじゃぶユルユルのデマ社会である。

様々な軽々しい思いが交錯し、掲示板に書き込み、傷つけている。 ネットの暴言はタダだ・・・の卑怯な社会。

 

クドクドと書いてきたが、そもそもニンゲンは親の影響を受け、情報は情動のネタでしかない。

情報による情動でニンゲンは共感しやすいが、共感したからといって、すぐさま行動するわけでもない。

富士山に放置されたネコですら救出には時間がかかってしまったのは、記憶に新しい。

ネット社会は、他人に振る社会でもあるのだ。 誰かに呼びかけたことで満足を得るマチガイが存在している。

 

足元で、のたうちまわる傷病者がいても、責任を負えないから手出しせず、誰か助けてくださ〜い、な社会。

AEDがあっても、なかなか役立たない社会である。

無駄な保身知識と、親の価値基準で萎縮を続ける社会意識。

 

んま゛〜いろいろアレコレややこしいことを記述してみたが、面倒だからもう止める。

現代の親には、情報があるがゆえに悩む幅がブレてしまい、無駄に悩んでいるし、無責任化も進む。

情報が多いから、誰かのせいにしやすい知識を得られるし、モラトリアムな社会の蔓延によって、

バカな親たちが向こう見ずに繁殖する比率が増えているように思う。

ポストに放り込んだり、ドメスティックバイオレンスの捌け口にした挙句に殺したり。

 

悪いことばかりのようだが、良いことは少ない。

ニンゲンが無駄に増えれば、それだけイザコザが無駄に増えるのだから仕方あるまい。

 

情報はニンゲンが中心である。

それだけでもジャーナリズムの偏りだ!と「他の存在」からツッコミ入れられてしまうだろう。

つまり、ニンゲン中心の報道すら、まともにできていない人類。

 

意図的なニュース・モドキに満ち満ちているポン社会。

せめて、報道の意図を読み取る脳力くらいは、もっておきたいものである。

 

少なくとも、私は自分は自分であって、大勢にまとめられたくはない自尊心はマンマンだ。


ではまた