オッサンの自由研究は愉しイノ〜

 


 

気になる話題

 

そろそろ島は梅雨明けだろうか・・・例年通り、えらい食欲不振で冷やい流動体しか喉を通らない。

内地で梅雨入りと同時に恐るべき大雨に見舞われたというが・・・あれは梅雨とは違うのでは?

だいいち、梅雨前線はまったく違うところにあるではないか。

そう報道しておけば、国民を納得させやすいことはわかるが・・・

沖縄の梅雨入りは、前線とともに決まってくるが、奄美や鹿児島はビミョ〜であるのと同様か。

今年は気象庁の発表より一週間くらい前から雨が続いており、沖縄とほぼ同時に梅雨入りした感がある。

ど〜せ奄美地方の入梅など注目されてないし、一応差をつけとけ・・・というレベルだろう。

内地人は出遅れると無駄にウルサイから、早めに宣言しておいたのだ。

 

我が家にはテレビがないので、ニュースには疎い。 大規模な自然災害は、コチラでチェックしている。

今年は一段と無常識な気象が兆しており、我が家もそろそろ災害対策しておこう。

ラーメンなどは、そんなに保存が効かないんだよね゛〜、粉末出汁と和麺の組み合わせが長持ちか。

 

このところ、淫猥な事件が後を絶たない。

一夫一婦でセックスレスの関係では、男性の繁殖本能をもてあますのは当然だろう。

生物は繁殖以上の事柄が存在しない以上、現代のように偽りの禁欲を美徳とするのには無理がありすぎる。

 

ところで

我が家のパソコンは過去に戻したのだが、どうもブルースクリーンが多くなった。

壊れる兆しに間違いなかろう。

内部のSSD・RAIDは高速だが、どうやら寿命もさほど長くないのかもしれない。

まさか・・・メリケンとか情報部の戦術を先読みするから、クラックされて落とされてる・・・ってことはないと思う。

連中もそれほどヒマじゃなかろうし。

 

ともあれ、次のパソコンが見当たらないのが寂しいところ。

クアットSSD搭載機より高速のノートパソコンなど見当たるはずもないし。

 


 

徳之島は、貧乏人意識が強い島である。 実際に所得は低い。

沖縄のように優遇されていない、運賃が高いから観光も流行らない、

島が貧乏なのは自分たちのせいじゃない・・・そういう意識で満ち満ちている。

 

貧乏なのだから、処分費など払えぬからゴミは山に捨てる、公衆トイレの鏡や他人の庭先の草木を盗む、

農具や肥料、牧草なども盗まれる・・・そうしたことを容認する方向に全て働いており、

貧乏を理由に、ユルユルになっているのが実情だ。

 

もともと、正確にコミュニケーションをしない、クヨクヨしないし、熟考もしない文化だから、

畜産、放置型農業、個人商店、ハブ捕りなど自己完結型の商売しかできないのである。

もともと島口には目的格がない。

何かのためにコレをやる・・・はなく、思いついたからコレをやる・・・という思考である。

男尊女卑、年功序列の言い放ち型の場当たりコミュニケーションでは、商売が成り立つこと自体、奇跡に近い。

 

島口の復活が叫ばれているが、島口は語彙(ごい)が少なく、大雑把な事柄しか伝わらないから厄介である。

子供らにそれらの雑なコミュニケーション文化が広がることは、実は恐ろしいことなのかもしれない。

 

シマンチュの気質イジリは、これくらいにしておき、そ〜ゆ〜情況下では、すぐさま金にならぬ自然などは

注目されるはずはない。 なのに前々回特集したように、自然遺産登録の話が持ち上がっているのだ。

 

私は自然遺産推進派ではない。 アウトドア派じゃないからBBQとかは苦手だが、自然は好きである。

このごろの人生モテアマシ系老人のように、山登りのような即効性の自慰達成感では満足できないので、

当然、ジワジワと考えながら、積み重ねて愉しめる自然観察に意識が向いていく。

 

たまたま

横浜のHMSから電話があったとき、もっと大物釣りに取り組め・・・と灸をすえられたのもあって、

くすぶっていた釣り意欲がわずかに炎を取り戻した感があった。

南大東の急深磯での超遠投ジギングのために生まれたタックルを応用し、リーフの果てまでジグを投げ込む、

新コンセプトのジェットジギングを試そうとタックルを組んだところで、強風や炎天でテストはできていない。

 

そのまま意識は海に向いており、山でユリが咲くシーズンだが登る気がしない。

せっかく好天だから、身近な海を歩いている。

徳之島空港と、トリトリデッキの間に広がる、あのイノーだ。

 

イノーは、生活排水も流れていたり、心地よいことばかりではない。

無駄に植えられたメヒルギが繁茂し、手に負えなくなりつつあるのに、シマンチュは無視している。

私はトリトリデッキをこさえた手前、あのまわりに鳥が近寄らなくなることだけは避けたいし、

外来種だからといって、全てが悪い方向にはたらくとは限らないとも思っている。

そもそも空港建設によって泥がたまりだしたイノーは異常だが、そこがエビカニの宝庫になっている。

 

宝庫だ害だとクチサキだけで語るわけにもいかぬので、ボチボチお散歩がてら趣味的に観察している。

 

実際ここ3年で、泥の多い部分に繁茂しすぎて、野鳥が来なくなったエリアがある。

ただしそこは泥が深く、有明海の潟スキーでもなければ立ち入ることができない。

 

当初、先だけカットすれば復活しないのではなかろうかと想定し、実験してみた。

すると2割くらいは生きており、復活することがわかった。

メヒルギは枯死しても樹幹が非常に硬いので流れを妨げる力が衰えぬこともあって、

本数をコントロールするには、若いうちに抜くしかなさそうだ。

 

メヒルギは流れを妨げ、泥の蓄積を促すことができるが、特段泥が必要な植物ではなく、砂地に生える。

真水は必須のようで、まったくの海水の場所には生えない。

競合する植物の少ない河口域で、泥を蓄積し分解者を増やすことで有機物を無機物に変える仲間を住まわせる。

なんとも気長で壮大な戦略で、すぐれた進化ではないか。

それにしても、いろんなものを溜め込むなぁ・・・

 

このごろ探しているのは、マングローブにいる希少な貝類、幼少の頃からの憧れシマカノコ。

それと、分類が怪しいマングローブアマガイ。

殻はわりとあるのに、生体が得られない。 泥の上とか、岩の上とか分布も曖昧。

以前、ふと見かけたのは砂上だった。 その時は、珍しくなかろうと撮影していなかったのが惜しまれる。

 

アマガイは入口が半分閉じたような半月形をしているため、ほとんどヤドカリには利用されないから、

大ぶりな貝殻もイノーに残っている。

 

今回見られなかったのは、やはり炎天を苦手としているからだろう。

夜、もしくは曇りの日に来るのが正解なのかもしれない。

 

過日、偶然見つけたのは、藻場。 藻といっても海藻でなく海草の方。

水中に生える、花が咲く草である。 フツーのアマモよりぐんと細く、アマモがキシメンならコレは素麺くらいか。

葉は一定の巾で、緑の麺というか、リボン風。

あとで調べたら、コアマモのようである。 南西諸島では妙な分布をしているというナゾのある海草。

 

ブログに載せたところ・・・環境省の方から話があり、

徳之島にはアマモの類は分布していないことになっている、ということだった。

 

人口浜のヨナマビーチにはアマモがどっさり生えているので、アマモゼロ・・・ということはない。

奄美大島、沖縄島にもコアマモは分布しているから、徳之島にあっても不思議はない。

アマモは、あのジュゴンのエサである。 コアマモは細くて食べづらかろうが・・・

 

不思議なことにヨナマビーチのアマモは、刈り取ったように短い。

ひょっとすると・・・夜な夜なジュゴンが居たりしないものか・・・と期待していたり。

 

もう一度、コアマモの分布を確認したくなったのは、言うまでもない。 動物好きの私だが、海好きでもある。

前回歩いたときのルートをたどると、思ったより北側にあった。

私は脱毛しはじめて、かれこれ二十数年・・・抜け毛ならぬ抜け葉が多量に流れているのが気になって仕方ない。

先の場所のような、まるで私の額か頭か・・・グレーゾーンがレッドゾーンになりつつあるような繁茂では

あの量は養えない。 もっとあるハズである。

 

コアマモは淡水が効いているところに生えるから、干潟にできた川の流れをたどってみることにした。

計算どおり、いやそれ以上に、大群落といっていい場所を見つけることができた。

群落がいくつも点在している。 念のため、GPSつきのデジカメで緯度経度ごと記録しておいた。

このごろシミジミ感じるが、イノーの砂の色を自然に記録できるデジカメがない。 カラーバランスがオカシイ。

コンデジではとくに、赤くなったり、青くなったり、あるいは緑になったり・・・同じ機種でもコロコロ転ぶ。

 

そういえば、思わぬナゾが解けた。

砂地といえばコレ、コメツキガニである。 内地ではチヌのエサとして名を馳せている。

コチラではコバルトブルーのミナミコメツキガニがメジャーなのだが、他に居ないのは変だなと感じていた。

マングローブの砂泥にはミナミコメツキガニがいたとして、砂地には別のがいてもいい。

案の定、内地のと同じ種が分布していたのである。 ミナミクロダイが食っていても不思議はなかろう。

ただし、イノーのチヌが回遊する水深のあたりには、ヤマトオサガニ(ヒメヤマトオサガニかも)が居り、

おそらく大量にチヌの腑に落ちているのは、そちらだろう。

水中で抵抗の大きい体形のコメツキガニが、水中を好むとも思えぬものの・・・我々が知らぬだけで

意外に水中でも活発だったりして・・・

 

研究者らは厳しい予算で活動しており、活動できない地域はナントナク論述してゴマカシテいる・・・

を、垣間見ることができるのが愉しい。 図鑑はアテにならぬ・・・とまでは申さぬけれども、これからは

シマンチュが生活の中で見かけている生物が、別亜種、あるいは別種だった・・・ということはザラに起こる。

実際、トクノシマトゲネズミはオキナワトゲネズミとかアマミトゲネズミとも全然別種だったし。

 

カネにならない生物の分類など、社会的にはソノテイドのものなのだ。

図鑑、学術ももまた、当然のように経済原理に則っているので仕方ない。

不条理ではないが・・・島では自然科学について、胸張って子らに説明できぬのも事実。

ぶっちゃけ、島の昆虫や植物、鳥類に関しては情報が個人の趣味的または好事家データでもないかぎり、

研究者はほとんど来島していないので、図鑑の情報は、半分くらいしかアテにできないのが実情である。

 

研究者は研究のためにやっているのであって、好んだ研究かはビミョ〜だ。

反面、島で観察をしている好事家は、それら研究者の観察頻度をはるかに超えていることが多々ある。

 

なので、このごろはネットや図鑑で怪しい・・・と感じた種に関して、再調査するのを愉しむ志向になりつつある。

んま゛〜カッコツケれば、向学的クレーマーといったところか。(笑)

 

それもこれもネットが発達し、そうした学術を営んでいる専門家にアクセスできるようになったから、愉しめるのだ。

ある意味、換金系研究者と向学的クレーマーがもちつ、もたれつ・・・になればと望むところである。

島に住む私とて、いつもかもブラブラ観察していられるわけでもないし、ツッコミ精神だけでは起動し辛いこともある。

都会の職業専門家?が背中をポンと押してくれれば、イッチョヤッタロカ気分になるものだ。

 

あえて伏せている情報を、チラと載せておく。 つい先日撮影したものだ。

植物は動かないので、私の心は動かない。 だが花が日々変化するのは動きと感じることができるようだ。

これは奄美群島にのみ分布する希少なユリが、咲き始めた記録である。

 

クロウサギ生息地だし、山へ登るのがカッタルイから・・・地上から見えないものかとポイントを探したのが昨年。

天然記念物なのに商業採取で激減したのだが、昨年群落を発見して島の自然保護関係者?は大興奮。

本来なら大発見らしいから・・・島の有識者にしか伝えられないのが残念だ。

この発見は学術的に重要でなく、一部の役人の大成果にはなっても、情報はすぐ漏れて盗採につながる。

 

んま゛〜 この解像度なら、採取者の顔を特定するのも難しくなかろうから、さほど心配する必要もないかな?

 

左様に、研究者すら足でアプローチできなかった場所を、まったく別のアプローチで調査できることもある。

研究者が甘い!とは申せぬかわりに、あいまいな情報で徳之島を語るな!とは語ることができそうだ。

そのくらい、奄美大島と沖縄島は調査されているが、その間はおおよそナントナク論文、図鑑に記述されている。

そんなことくらい・・・気にしているのはアンタだけ・・・と思うのは読者諸氏の勝手だから止めはしない。

ただ、私は図鑑をなめるように眺めて幼少を過ごしていたので、もし、島で育っていたら図鑑は信じられず、

あまつさえ教科書などの記述も、維新を果たした薩摩藩の島々に対する黒歴史が、すべて伏せられた内容を知り、

グレるというか、反抗期とは別の意味でモーレツに書物や教育に反抗していたかもしれない。。

維新の重鎮とされている、なぜか犬連れ銅像で人気のサイゴードンは、

奄美群島にとって砂糖地獄をもたらし続けた、トンデモナイ鬼畜搾取野郎一族だ。

  

こうしたゴツゴー主義を絵に描いたような教科書や図鑑については、内地に住んでいたら感じない憤慨である。 

沖縄はメリケンの上陸作戦に遭ったが、それ以前に奄美群島は薩摩藩の鬼畜の圧政に、

書物や史跡を焼き払われ、文化も歴史も抹消された挙句、サトウキビ生産生物にされただけの地域だったのだ。

多分、青の読者の方々は、ナニ言ってんだ・・・教科書にないし・・・だろう。 明治政府が薩長だから載ってない。

薩摩藩が奄美群島にやってきたことは、従軍慰安婦問題と比べるのは不謹慎だが、そのような比ではない。

明治以前の史実自体を物理的に抹消されているから、観光化できないのだ。

沖縄において、ガイジンの侵略者が同胞を殺してくれたお陰で恵まれる・・・のは哀しいが、奄美も占領下だったから

もう少し支援されてもよかろうと思う。

 

とまあ〜 われわれ内地人が知らぬことが、アタリマエのように日々露呈するのが奄美の地域の生活である。

奄美群島は国策というか、薩摩藩ベースの政府によって暗黙に落とされ続けている島々だったのである。

だって、維新が否定されたら、現国家の原型を失うことになり、民主主義への足場が失われるのだから、

隠蔽されてしかるべし・・・に違いなさそなものの・・・現在のニッポンの教育上、隠蔽され続けていいハズはなく、

教科書に砂糖地獄をキチンと記載できなければ、平和憲法も誰のため平和か・・・意味をなさぬ。

 

塩の長州藩、砂糖(黒糖)の薩摩藩が明治を築いたわけだが・・・その裏に奄美群島の黒歴史があった。

それを語ってしまえば、近代日本の誠実さが揺らぐ。 第二次大戦以前が想像以上にバカ政府だったことがバレる。

のほほんとした平和っぽいポン国内だが、語られぬ歴史は、そこここにある。

 

閑話休題

 

アタリマエのことだからこそ、疑念を抱かざるをえないのが・・・イノーに最も多いカニの一種、ヤマトオサガニ。

このあたりのは、すべてヒメヤマトオサガニだといわれるものの・・・島々を真剣に調査したハズはないと思う。

オスの、ハサミをのぞく前から3番目、画像の右端の足にフサフサ毛があればヒメ・・・

ちなみに画像のようにフサフサしてなければ、フツーのヤマトオサガニの可能性が大きい。

 

カニはプランクトンとして、外洋からやってくるのだから、混在していてアタリマエである。

天城町産の地元のカニ幼生が海水の出入り激しいイノーで成長していることは、極めて希な事例と言ってよかろう。

そっくりさんのヤマトオサガニとヒメヤマトオサガニだからとて、わざわざ死闘を演じるかビミョ〜だ。

近縁種で戦争する以前に、適度な?生活排水や、牛小屋の臭い汁豊かなイノーで闘う理由があるだろうか。

 

余裕がある環境では、争う必要がない・・・と考える方が自然だ。

 

徳之島の自然科学についての問題点は、根本的に調査が足りないか、やってないからアバウトということだが、

もう一つの視点として、自然は常に競りあい、変化していることも挙げられる。

 

図鑑編者が、変化を認識していないことは多い。 同様に、論文は静的に記されていることが多い。

私が調べ上げた結果、このような事実が判明した・・・と数年の調査の内容で傾向を固定して記す。

しかし、気象変動が大きくなった近年、世界のあちこちで図鑑の静止情報が流動化しているだろう。

 

沖縄でも奄美大島でもない徳之島。 おまけに島は小さな世界だから、もともと変動も激しい。

自分の知りたいことは、他人の情報に頼るな・・・というのが島の実情だな・・・とわかってきた。

 

ちなみに先日、NHKのラジオ深夜便の4時台のコーナーで、広辞苑の編者のかたのインタビューが報じられた。

コトバは絶対ではなく変化するから、その可能性を含めて載せるか、大多数に受け入れやすい事柄を究めて載せるかは

それぞれの編者らの方針によるという。

 

よくよく・・・「ゼンゼン好い」とうのはコトバが壊れたように昭和の知識人およびマガイの者らに語られる。

しかしながら 「全然タル」 というのは 「まったくもってそのとおり」 という意味であって、否定的な言葉でなかったという。

加えて編者によれば、せいぜい明治から慣用し始めた語句に、いかにも歴史があるようなモッタイをつける

知識人が多いという。 すなわち教育者たる、先生も含めて・・・である。

 

慣用こそ文化の流行り廃りそのものだ。 文化は流転するものだ。

高度成長期に育った私が和食というと・・・どうしてもカツ丼やら、ハンバーグ定食を外せない感じがする。

あまつさえ、天ぷら定食といえば和食そのもの、ドマンナカ感がある。

ただ・・・もともと天ぷらが戦国時代に大陸から渡ってきたころは米粉を使っていたといい、

その後あまり間をおかず西洋の甘味に近い小麦粉の衣を用いたフリッターが伝えられたことで、

そちらにの風味になっていったようだ。

 

天ぷらを和食から除いてしまうと、かなり薄まる気がする。

他方で、飽食の現代に至っては、山菜や野草をコッテコテの炭水化物と油まみれにして食らうのは、

とても和食の範疇とは思えぬ不健康の極みである。

 

左様に、私たちが知っている和食は、江戸や上方にはあっても、地方には存在しておらず、

明治以降、あるいは戦後、あるいは高度成長時代以降のものが多い。

あと千年もすれば、インスタント麺は立派な和食文化となろう・・・ 文化の重みとは単純に時間の隔たりである。

 

閑話休題パート2

 

私たちの寿命の範囲でしか知りえない事柄を、固定的にとらえるのは仕方のないことだ。

固定しておいたほうが、農民根性&お上至上主義で思考を好まぬ国民にとって、不安がなく楽チンだからだ。

 

しかしながら、私たちが大地にしがみつき、国境をこさえてしまって動かなくなったのとは異なり、

自然の動植物たちは文化がないから自由である。 私たちの文化的固定観念では、追従できないほどに。

 

もともと泥のない澄んだイノーで、このような舞いは在り得なかった。

コウノトリがボラを追ってサギのように舞い、捕獲する様である。

コウノトリはもともと沖縄だろうが台湾だろうが、渡る能力を有している。

ただ、エサがないところでは長居できず経験者は二度と来なくなり、次回に飛来するのは、定例の迷える若造だ。

野鳥は無茶する若造が発生することで分布を広げる。

 

メヒルギの種と似たような戦術である。

真水と海水が交じるイノーで絶妙の浮力で潜行するタネ。 浮かないし、沈みもしないタネがある。

メヒルギのタネの浮力は多様で、分布を広げる戦術である。

軽いものは普段から外洋へ出て分部を広げ、あるいは重いものが外洋に出るくらいの大荒れ、大洪水になれば・・・

重い種まで外洋を旅して次の居場所を探す・・・実に理にかなったタネである。

 

ついでに、コレも居ないはずのカニ。

本来いなかったはずの、ひつこいデロデロのマングローブ泥質を好む南方のシオマネキ = ヤエヤマシオマネキ。

こいつらが、なぜ南方系とわかるかといえば・・・種の判別もさることながら、他のベニシオマネキやヒメシオマネキが

とっくにワラワラ出てきているのに、外界で運動する熱量が足りないのでヒキコモリを続けてしまうことである。

私が、あつい゛わ゛〜と感じるようになってからでないと土中から現れないのである。

ちなみに、ダテに島にヒキコモッテいる私は、一日イノーを観ない事はあっても、二日目には必ず観ている。

 

私が表現するイノーは、せいぜい数百メートルであり、車で巡ることのできる都合のいい運動公園周辺だ。

重視しているのが、変化を感じ取るための「頻度」だからである。 イチイチめんどくさい多方面を開拓しても、

密に定点観測できなければ、そのデータの信頼性は低い。

つまり偉いセンセーが一時的に観測したといっても、タマタマなデータってこと。

 

情報行動が盛んになった現代、過去の散漫な観測データでは、地元の観察者には及ばないという現象がある。

鳥類にしろ昆虫にしろ、移動が激化しているこのごろにおいて、図鑑はあくまでも過去の基本で、参考だ。

もちろん、基本があるからこそ変化を感じるのであり、図鑑の過去データはとても大切な基本には違いない。

 

せっかく記録の少ない島に移住したのだから、気付いたものから地味に記録を続けている。

何の役に立つか判らないデータもあるが、たまってきたら意味を成すかもしれない。

 

知りたいことを探すこと、知りたいことを調べること、知っていることを積み重ねること、積み重ねを記録すること。

あんまり頭の働きがよくなくなったので、忘れてもいいように記録だけは忘れないようにしている。

 

なるべく自分が足を運びやすいところを、なるべく日常的に観察するように心がけている。

とかくクロウサギなど珍種ばかりに目をとられがちな周囲。 でも、基本が調べられていないことが山ほどある。

 

私はシステム屋としての頭になってしまっているので、個々の現象にはあんまり意味を感じない。

何かと連動している、関連していることが大事に感じるタチなので、イロンナ事柄の穴を埋めていかないと、

どうも興味がわかないようなので、少しずつ身の回りの知識の穴を埋める感じで観察している感じだ。

 

生物は長い時間で進化する。 だから私が結論を見つける必要もないし、私が無理に観察する必要もない。

ウンブキアナゴはたまたま希少種に行き当たったが、希少な種を無理にホジホジするのでなく、

なるべく島の日常を明らかにしたい・・・と思い始めている。

 

ともあれ

どんだけ観察しても、なかなかイノーの浅瀬の魚が釣れないのが、現状で最大の課題だ。

あとチョッとなのだが、食わない。 今週末はまたイノーのチャンス。 無駄に研究を続けるとしよう。

でないと、タンパク源が・・・ あ、ジェットジギングもテストしまい(=しないと)だな・・・

 


 

追伸

イノーなんてビーチサンダルで十分だ・・・とか思っていたが、甘かった。

ジャスト、ライフル弾くらいのサンゴが貫通して、イイ感じに痛かった。(笑) 

Mブーツに進化したものの、もう退役させよう。

激安ブーツだから、磯を歩くとすぐ歯抜けになるわ、浸水して親水性が高かったので、いい機会だ。

 


ではまた