昔から、美人はトクよね〜の原理

 


 

世間話あれこれ

 

相変わらず慢性夏バテ症は健在で、いよいよ食事がおぼつかなくなった。

腹が空いても食べたいと思わないのは、結構重症なのだろうが・・・気力がないのは精神面のためかもしれぬ。

酒だけは、なんぼでも入るんだが・・・それが余計にヤバイ。

 

メリケンがシリアを相手にしたいのは、イロイロあるだろう。

アポロ月面着陸と911を自作自演したのだから、シリアを毒ガス国家にするくらい朝飯前だ。

私としては、遅々として領土拡大できていないイスラエルにドサクサでプレゼント・・・かなと想定している。

それをNATOが許したら・・・尖閣はオシマイだと知るべし。

 

フクシマのタレナガシがバレバレになり、さしもの自慰眠党も知らないフリができなくなったようだ。

よほど焦っているのだろう、切り札どころか、屁のツッパリにもならぬ土中凍結技術?に国債発行するという。

いつもクドクドうるさい前例は? 実績は? おいおい、ドンダケ無駄に国際を発行する気だよ・・・

大金はたいて、怪しげな技術の実証実験してやらにゃならぬとはなぁ。

 

それにしても、内地の突然豪雨に竜巻・・・お見舞い申し上げる。

太平洋側だけでなく、日本海側ですら樺太までカンパチが釣れる海水温20度ラインが伸びている。

サンマでなくイワシがとれたり、サケでなくブリやマグロがとれるのも無理はない。

異様に温度の高い海水域から、突然湧き上がって積乱雲のかたまりになっていく姿は、テンキ・ジェーピーの

衛星画像のアニメーションでしっかり観察できる。

これから気温が低めになってくると、ともすれば雹が降り始めるかもしれない。

気をつけたからといって被災しないこともなさそうなので、せいぜい日々を楽しく生きられたい。

 


 

人間社会では、美しいというのは、それだけでもう不公平で立ち位置が高い。

過日、そのような現象が写真に現れた。

 

題は「コーラス部」である。

 

写真の投稿サイトにアップところ、これまでのいかなる写真より反響が大きかった。

内地のヤチョラー?が愛して止まない、清流の宝石カワセミ。

カワセミを撮影してあるだけで、注目度が高い。 無論、見る目も厳しい。

 

実はこれ、カワセミどうしの縄張り争いのワンシーンだ。

おそらく、都会でひねもすカワセミ撮影に興じているジジババなら、一発で見抜いたはずだ。

 

2羽は毎日、あちらこちらで激突してい、その激しさが表れているハズなのだが・・・

カワイイ小競り合いどころか、兄弟が御馳走を見つめているよう。

 

島では清流にもいるが、海岸に多い。

ここは例のトリトリデッキのところで、撮影のタイミングでは干潟になっていた。

背景のビミョ〜な緑のグラデーションは、友人が持ち込んで生やしてしまった外来植物メヒルギだ。

 

トリトリデッキの窓からダイシャクシギなどを観察していたら、背後でウルサク鳴くもので

そっと様子を見たら・・・お天道様にお祈りするような仕草をするのだ。

 

お祈り風に見えるのは、交互に頭を下げるから。

ホッソリしてキヲツケしつつ・・・ときどき交代でぺこっとやる。

今回は、すぐ近くでじっくり観察できたおかげで、雄どうしでもあり、フツーじゃないぞこりゃ・・・

くらいには認識できた。

 

その振る舞いには見覚えがあった。

実家の近所にある外城田川でも、カワセミのお祈り風景を見かけた。 こちらはメスどうし。

伊勢ではネットが使えぬので、すっかり調べるのを失念していて、縄張り争いとは知らぬままだった。

 

一見、下のクチバシが赤く見えるからメスっぽいのだが、陽に透けているだけ。 双方雄である。

縄張り争いが、喧嘩かどうかはビミョ〜だが、明らかに一定のカワセミ共通ルールがあることが判る。

 

ぺこぺこしたり、ピッキュイーと叫んだり、全身を細長くキヲツケしてクチバシの長さを競ったり。

ドングリの背比べなので、やはり勝負がつき辛いらしい。

ご覧いただいたとおり・・・ことごとく互いが呼応していて、不仲でやっているポーズには見えない。

 

結局、実力行使。

これにもルールがあるようで、噛み付くのは相手のクチバシ。

 

むしろ、ぺこぺこ+キヲツケで怒りのパワーをため込んで、爆発させているようでもある。

キックボクシングの祈りの踊りとは、意味が違うらしい。

 

このイザコザに集中しているためか、加えてイザコザで集中してエサを探せないからか・・・

このごろ私の存在を、あまり意識しなくなっているようだ。

3mくらい横に、ちょこんとやってきたりする。 そして・・・いつも追われているような。

 

夕刻、シギを観察していると、すぐ下にある流木にやってきて狩りを始めた。

バズーカレンズを向けてもお構いなし。

普通ならすっ飛んで逃げるところを、エサ優先のようだった。

このあと数秒後、青い矢のようなのがやってきて、追い散らすように飛んでいってしまう。

 

カワセミの世界も厳しいものだなぁ。 争っているのは親子かもしれないし。

 

ともあれ、美しくなければ、私も無駄に関心を持ったり、心配をすることもなかった。

ひょっとすると・・・

去年の猛烈な台風でできた倒木がイノーに設置?されたり、メヒルギが無駄に繁茂したおかげで

お立ち台が豊富になり、繁殖力が増したぶん親子のいざこざまで増えたとか・・・ね。

ともかく、イノーにはエサが豊富だが、カワセミが適度に見渡せる足場がなかったのだ。

 

閑話休題

 

ほとんどが前フリの今回。 美人はいつも注目されチヤホヤされるものだ。

本来なら、男性に好まれるDNAが生き残り・・・人間社会には美人ばかりになってもおかしくないのだが、

一夫多妻や一妻多夫を許さない、つまらぬ掟があるので、美人ばかりにはならない。

無論、美人にも振れ巾があるだろうし、新しい美人像も発生するかもしれない。

ただ、やはり美は一種の力であり、戦う前から勝敗の決まっている不公平である。

 

一方で、美という概念は、おそらくニンゲンだけで、他の動物は腕力や、健康的な毛並み、などで

判断しているのだろうし、ミクロの生物は、めくらめっぽう合体することで増えまくるのみ。

 

喜怒哀楽のなかに、恐らく美ははまっておらず、萌えにあたるのだと思う。

 

明らかに感情をゆさぶるのに、概念があいまい・・・すなわち、繁殖上重要でないのかもしれない。

ではなぜ、美しいと感じるのか・・・なぜ最初から不公平なことを好むのか・・・

 

私は仕事柄・・・・? 好みの女性を描くことができる。

ゆえにメンクイすぎて結婚できないようである・・・ なぜ、美しいことが大切なのだろう。

やはり美しさは、強さと連動している要素なのだろう。

 

そういった意味では、天然よりも地力で美しくなったものが、真に美しいのだろうか???

人類史上、猛威を振るった王は、美しい女を得んがために戦った。

劣情ベースで血塗られた路を歩んできたのは間違いない。

おそらく、今になって貞操を重んじるくだらない掟が、国家元首など権力者にとり、邪魔になっていることだろう。

扶養家族をどんだけでも持てる王たる者が、たった一人の嫁しか獲得できない・・・それでは強い遺伝子が残せない。

経済強者が、生物的な強さを有するとは思えぬが・・・少なくとも、多くのニンゲンから受けるプレッシャーには強い。

 

美しいことは、やはり強さに直結する何かを秘めているから、皆が望むのだろう。

姿形だけでなく、技術や巧みさも美は存在している。

その美をコントロールしている職業すらあるのだから・・・ニンゲンの社会性は生物進化を歪めているに違いない。

美しさは、そのこと自体がトクだから存在している。

 

そてにしても、美人に生物的強さが関係ないはずなのに、私はなぜコダワルのだろう・・・意味が判らないが、

既に幼少の折、ダッコされる女性を選んでいたり、気に入らないと泣いたり・・・やっと覚えた言葉で、

「あのお姉さん、顔がおかしい」とか言ったのを、なんとなっく知っている。

チンコどころか足も立たないころから、私はメンクイだったようにも感じるが、

小学のころ、スカートめくりしたお気に入りの女子は、さまざまな違った魅力があったから・・・めくりたかった。

 

つまり、私の美の感覚は都度シフトしており、子供のころから1人の女性を選ばない性格だった・・・のか?

いやそもそも、女性に対して惚れっぽくて飽きっぽいのか・・・あるいは惚れたのでなく気に入っただけか。

私にとって美は愉しみの対象であって、コダワリの趣味・・・ってだけなのかもしれない。

そのわりに私の中での美は、とても大きな意味を持っている。 生まれついての趣味人?

まさか、そんなことを考えながら、めくっていたわけではないし、SEX自体も興味があったわけではない。

一方で、めくって気を引きたかった3割・・・半分、視たい7割・・・くらいの心持ちだったように思う。

勢い、美から女子のパンツへ飛んでしまったが、ともかく幼少期の美の意識は薄く、いつも変化していた。

 

他方、

美の反対を好む、えらく変わった趣向もあるようだから・・・やっぱり美も一種の趣味、嗜好か。

 

美しくなければ強くない・・・ということもないが、美しいだけで飯が食える。 デザイン業もその端くれだ。

そういった意味では、美は力にもなる。

美は、ほぼ万国共通のもあれば、まったく異なることもある。 社会性において生み出されたプラスの感情。

好ましいより、もう少し上の感覚、希少価値に近いか? やはり美は、最初から立ち位置が上である。

 

美しいことは、既に大量の好ましさを含んでいるから、それだけでも十分トクである。

もうすでに我々は、美を感情を操る道具として、合理的に認識している。

美は目的ではなく、手段・・・か。 トクする手段としての美・・・コトバの遊びとしては、イイ結語だ。

 

トクする手段・・・そ〜ね〜、美人も老けるし。  使える限界がある道具・・・かも。

美しいものを持ったり贈ったりするのも手段。 喜怒哀楽の喜びを起こさせる手段。

私は美を比較的普遍的な心の在り様だと感じていたが、どうやら一過性の喜びをもたらしやすくする

好ましい事柄を他人と広く共有するための道具・・・のようだ。

 

つまり、美は造ることができるものの、共通認識がなければ、美になれない。

私的な美・・・は、アリなのだろうが・・・それは時代と離れているかもしれないし、変人と云われても仕方がない。

美は、太古から権威を支え文化を伝える、メディアのようなものだったのかもしれない。

 

さてさて、美人はトクではなく、トクするために美が造られたのだ。 トクが先で美人があと・・・

然るに、トクが多いのが美人なのだ! どうだこの完璧な結論は!?(笑)

 

より完璧を期すならば・・・美は貨幣より前から、流通、伝達できるトク(価値)だったのだろう。

宝飾とか奴隷とか、そういう意味も含めて・・・トクが多いのは本人ばかりではない。

 

しかしいつものことながら、無理のある帰結には違いないが・・・なんかこう、昆布茶を究めようとしたら

いつのまにか、顆粒昆布だしに入れ替わっていたような気分である。

 

ま゛〜今、ウツの極大期みたいだから、このあたりでご勘弁を。


 

ではまた