ウツらしき旅の愉しみ

 


このごろ新型ウツというのが発覚したらしい。

自分が好ましいと感じることはスンナリできるのに、そうでないことはウツ並みの

ヒキコモリっぷりという。

私に例えれば、釣りには出掛けるけど、アウトドアやお出かけは苦手・・・といった風。

大人数を相手にソリューションするのは面白いが、1人のためにデザインするのは

いささか気が進まない・・・など。

正に、例えどころか昔からの私にピッタリ!だったりするものの、ウツはしきい値ではない。

本来は、ここからがウツです!という玄関口があるわけではない。

 

今のところ最悪現象が出たらウツといいましょ・・・と、いかにも西洋医学らしい、

対処療法的な安易さを好むヤブ精神科医にとって、大切なのはしきい値である。

 

心の問題は本人の問題・・・それは、大きな間違いだと思う。

そのように育ってしまった、成長したのは社会の中であり、大なり小なり自分にも社会にも

課題があると見る方が、大人の対応とは思えないだろうか。

 

不況で不安で、高齢社会・・・この社会に課題がないとは、到底言い切れまい。

大災害や殺人を目の前にしたら心が折れてもいいが、それ以外で折れたら社会不適合と

指差しているような現象が、まだまだ無いでもない。

ま゛、私が足腰の立たぬ老人を、災害の足手まといと言い切るのも、似たような心構えからだろう。

 

おそらくウツは社会現象だ。

だらしなくて弱いノビタ君を、優しいと勘違いできる・・・妙な余裕を生んだバブル時代、

弱いことを優しさだと信じ、心の支えにすらして生きてきた人も多かろう。

そうした弱い心が、プレッシャーを支え切れなくなってしまったのが、一部具体的に露呈して

ウツとなったのではないかと思われる。 まだ氷山の一角と見たほうがオトナだ。

 

優しくすれば、相手も優しさを理解できる・・・などという迷信を流布させる物語やドラマも乱発され、

島国であることも手伝って、地球上希にみる豊かで弱い人民を育んでしまったのかもしれない。

無駄に優しくしたら、下手で弱腰になったとみるのは当然といえば、当然の事だ。

大聖堂のルーベンスの絵の前で死んだネロとパトラッシュについて、

負け犬の死の物語など意味が無い・・・としか考えない連中も世界の大半を占める。

 

甘さや弱さを活かせる社会・・・日本社会は、本来そういうところもあったろう。

あまりに目が外に向きすぎて、私たちは行く当てもない外側にのみ無駄に求め続けているような。

 

さて

小さな被害者妄想が、刻々と進歩していくウツ現象。

心の弱さは、起こりもしない様々な事態を連想させてくれることがある。

たとい小さな旅ながら、スリルを愉しむのがウツの味わい。

この物語は、先日の帰省からの復路で搭乗した、大阪〜鹿児島便での実録を元にした。

 

大阪から鹿児島へのフライトは、例のボンバル機である。

サンダーバード2号を髣髴とさせる胴体着陸も可能な機体なので、あまり心配はない・・・ような。

往きはプロペラの真横で、あまり生きた心地はしなかったけれど、帰りはやや後ろだ。

通路側しかとれなかったから、窓際に来るのはどなたか・・・と、昨日の猛吹雪などの欠航で

満席となっているはずの機内は、機内持ち込み荷の収納しづらさも手伝って、なお混雑。

すると、目が合ったのはジーサマだった。

 

スッチーの見落としで、ジーサマはようやくタキシングし始めてからベルトの着用に気付く。

その手が・・・よれフル、フルフル、よれフルよれよれしていて手助けしようかと思った。

しかし、老人とて男、意地もあろうから、かえって無視したほうがよかろうと思った。

少し落ち着いて、窓側の肘掛けに思惟像のような手つきになりかけたとき、

一段と強めのフルパワーフルよれになって、いまいち右手が顎のところに決まりきらぬ様子。

 

なんかヤバそうな予感がするな・・・

 

窓の外を見やる視線の下の方に、やはりフルフルよれよれが常につきまとう。

大丈夫だろうか、このご老体は・・・ふと私の足元に収納した超望遠レンズが気になった。

 

あらまっ!?

そうえいば、大阪〜鹿児島間は、飲み物サービスがあったのに思い当たった。

あのフルよれ手さばきで、飲み物を受け取れるのか!? あまつさえ飲めるのか??

 

右手利きだったら、おそらくコーヒーをこぼすのは、私の方向である。

そう断定できること自体、もう判断が狂っている。 フルよれに想像を加えても意味が無い。

 

そうすると・・・

コーヒーならまだしも、スープとかだったとすると、ニオイがついたりカビたり大変だ。

このジーサマにレンズを買い戻す余裕はなさそうだし、レンズの価値自体を理解することも

あまつさえ、対話になるのか?すら怪しいと感じてみたりした。

ならば、こぼれる前にブロックする手立てはないものか・・・などとヤキモキ考える。

最悪、落ちかけた瞬間ジーサマ側にクイック・スパイクし、はたくしかない・・・とまで思った。

 

飲み物サービスなど、この機内では行われないかもしれない・・・そう思いかけたころ

不眠がいささか進んだ伊勢生活のためか、うたかたの夢の中にいた。

 

ふと気付いたとき、スッチーお二人がワゴンをはさんで、すぐ横を前方へすり抜ける瞬間だった。

だめか・・・いよいよ来るのだな・・・ 淡い期待は潰えたから、全力で防御する方法を練る。

今にして思えば、帽子で受ければ被害は最小限だろうと想像するが、なぜか余裕はなかった。

 

いよいよワゴンが近づいてきたとき、先にスープを注文したら、ジーサマが気付いてしまうから

お茶とかそういうアッサリのを頼むしかない・・・と、空腹ながらキッパリ決めた。

よれよれでテーブルが出せなかったら危険だ! さすがに手を出すしかない・・・とも思った。

 

予想はハズレた。 ジーサマは先にコーヒーを注文したから、私はスープを注文できた。

しかも、ジーサマはフルよれのまま、じわりとツマミを回し、テーブルを展開できたのだ。

やるなジーサマ!? いささか嬉しかったのを覚えている。

 

だが、まだ伏兵がいた!

 

「お砂糖とミルクはいかがですか?」

しまった!その手があったか!?

 

ジーサマだからブラックで、昭和的だんでーに飲みやがれ!と

心で叫んだが到底届くこともなく、双方たっぷりと入れたい派のようだった・・・

 

そうだ、そうなのだ。

鹿児島人は国内随一の甘党揃い、なぜそこに気付かなかったんだろう・・・

 

私が空腹の両手で、ありがたく握り締めたスープの上空を、

スッチーの手から、よれよれの手へ、砂糖とミルクが渡っていくのを見つめていた。

 

もうだめだ・・・ 中くらいの絶望感が押し寄せて、いよいよ追い込まれていくような。

どうしよう、カメラはいいけれど、レンズはどうにも買い替えになるな・・・

キヤノンの新型600mmレンズと、保有する旧型500mmとはほぼ同じ重さだから

やっぱり600mmかなぁ・・・しかし最短撮影距離も伸びるぞ。

それに、機内持ち込みも厳しい寸法になるなぁ・・・ なぜか絶望は

お買い物意欲にすり替えられていく。 人の心は絶望を希望に替えるらしかった。

 

視線の右端では、ミルク添加作業が終わり、最終の細い砂糖袋の傾け行程に入っていた。

自動フルフルだから、砂糖を残さずすっかり注ぐにはとても具合がいぞ!とは

そのとき考える余裕は無く、こぼれるな、こぼすな、こぼしても慌てるな!と心で叫ぶ。

 

ようやく全ての行程が終了し、ほっとしたのもつかの間・・・

そうだ!飲むときが最も危険ではないか!?

私は半分ほど飲んだマイカップに視線を置いているが、全力で右を注視している。

湯飲みのように重い方がいいのだろうか・・・しかし紙コップの軽さも捨て難いぞ・・・

フルフルよれよれフルゆらよれユラしたが、無事コーヒーは口に入る。

残念ながら、入れ歯にカップがユラよれコツコツ当たる音は聞き取れなかった。

 

何度かユラよれフルフルしながらコーヒーを口に運んだのち、

ジーサマは砂糖とミルクの入れ物をカップに詰め、急ぐ必要の無いテーブルを仕舞った。

 

私は、ようやく安堵し、最後の一口を飲み干したが、

なぜか最後の一滴がカップの底にはりつき、いささか損した気分を感じる余裕ができていた。

 

もう大丈夫だ、全て終わった。

例えジーサマが失禁しても、シートとシーと下のライフジャケットが受け止めるだろうし。

 

終わったものの、いきなり緊張感がほぐれてやることがなくなった。

 

これまでは、ウツのためか騒音で気分が悪くなるからノイズキャンセルヘッドフォンをしていた。

ようやく今になって、騒音が耳につくのを覚える。 今回の旅には、用意していなかったのだ。

帰省のときしか使わないゼータク品を求めるような余裕は全く無く、人体実験に及んだまでだ。

実験はまずまず・・・といったところか。

 

健康なのか、無神経なのか・・・知れぬが

雷轟(らいごう)のようにやかましい電車や旅客機の騒音に、フツーにしていられる神経が・・・

今となってはウラヤマシイやら哀しいやら。 人類はフツーに難聴気味な生活を送っている。

嗅覚も聴覚もダメ、さらにメガネまでかける始末。 生物としてド〜ナノ?って気分に。

 

そうそう、となりのジーサマのフルフルよれユラゆるリン動力を、社会のために使う方法を

提案できやすまいか・・・? どうせヒマだから、何を考えても問題ない。

安心したのか、もう意味がわからぬ。

 

やはり最初に思いつくのは、最も効率的な自動手巻き時計の使わなくなったやつのチャージ。

塩やコショウなど、粉末調味料のかけ役 (漬物の仕込みの塩振りなど)

コーヒーや時節柄、大豆などの煎り豆役

貧乏ユスリの中和

ペットさすり

歯ブラシのフルよれ振動

消しゴムで、フルよれ消し

プリン・ゼリーなどプルプル食品の販促のゆらしキャラ

乱気流を通過しているような飛行シミュレーション操縦

手ブレ補正の補正度合いテスト役

ゆで卵の黄身が中心に来るように、ゆすり茹で調理

フルよれ老人のモデル

ボールペンや鉛筆を揺らして、曲がっている感じに見せる技の伝道師

カミソリでフルよれヒゲソリする、軽い?拷問とか

・・・といった具合である。

 

何れにしても、時給は温めた脱脂肪牛乳か、熱い昆布茶一杯がいいところだろう。

 

私としては、ケミカルプリン&ゼリー揺らし老師が、最もキャラ的に優秀と感じられる。

揺らし専業爺、その名もカーネル半ダースGって感じで・・・意味は無いけど。

問題は、よれ揺れにスタミナがないってことか。

それに、維持管理するのは、極端に難しそうというか、制御不能さを制御するのは無意味。

 

ま゛しかし発想に広がりが無いねぇ・・・

考えに余裕が無いってのは、こういうことなんだろうと痛感する。

反面、移住してから3年余り、私の脳みそもユルんだねぇ。

でもまだ硬いねぇ。 長年の都会生活のアカが溜まってるから仕方ないけど。(笑)

 

発想の豊かさがないのは、寄る歳並みとか、元長男魂保持者の硬さゆえとか、

原因は判ったところで改善策は、どうにも見当たらない。

 

そもそも改善がどのような見当の方向性なのか・・・知るよしもない。

それに私の思うような改善?をしたら、余計に変なオッサン化してしまうことウケアイのよう。

 

都会のように、電車通勤なら毎日鍛錬のひとときを、飽きるほど愉しめそうだけど・・・

暴走しなくてよかったような、ホッとした心持ちにもなるような。

 

時折、こうした自分への挑戦の機会があることは、ワルイコトではないように思う。

だからといって、ウツ的リスク過剰化思考が、どのように活かせるかどうかは未知数だし

本人が売り込めるほどのリスク想定にもならないだろうし、リスク過剰発想します!と

自身が持てるほどならウツじゃないだろうし・・・

 

ウツの典型というのは、誰もが判りやすい、なにか花形のような最悪さなのだろうけれど

そうでない、こうしたふざけようの残っている脳もあるということも知っておいていただければと。

ウツは社会の持つパフォーマンスの歪みの一つ。

私もそうだが、社会も慣れ親しんで、受け入れて付き合っていくしかないのだろう。


ではまた