老いを

たしなんいく日々

 


やはり、オッサンといえば加齢、辛口いや苦(にが)口すぎる?厳しいカレーだ。

 

運等不足と、体質変化が重なり、汗にものすごくアンモニアが混じるようになった。

酒のせいかな〜、細かい作業では手もふるえ気味だったり、

すごく目が遠い日があったり、おしっこのキレがイマイチだったり、

言葉がとんと出てこなくて、アノ〜あれあれ、う〜んだったり、

やたらに屁がブーブー出たり、思わず力んだら、たまにナカミが出てしまったり、

肉があまり美味しく感じないので、豆腐と卵のタンパク質生活になっていたり、

デブになるのも、金を使うのも嫌なのでカユばかり炊いていたり、

おかげで、久しぶりにカツ丼をいただいたら、胃もたれして大変だったり、

たまにスナック菓子やポテチを買ったら、一袋食べるのに3日以上かかったり、

反面、焼酎の消費はちょっと増え気味で、アルコール度を25度に落としたり、

家の中を片付けないから、だんだん生活場所が減っていったり、

夜にガイドなどの仕事をすると、あくる日がゴロゴロになってしまったり・・・

ゴロゴロしても、肩の肉が邪魔をして、うまく寝返りがうてなかったり・・・

そのために枕を高くしたら、首が痛くてやっぱり眠れなかったり・・・

裏返しにTシャツを着ていて、昼ごろ気づいたり、

Tシャツの下にハラマキをしていないと、腹が冷えて下痢気味になったり、

ま゛〜、自分でも思った以上に、充実し尽くしたオッサンライフを歩んでいる。

 

心身ともに、丸くなるというよりは、削れて機能が小さくなっていっているのは定か。

 

だからといって、医者に通ってどうなるものでもないし、

天城町にはロクな医者がないので、亀津まで行くのは面倒くさいので

やっぱりオッサンとしてだましだまし?生活している顛末。

 

機能の老失を憂いても始まらないし、かといって全てをあきらめたわけでなく、

今から左を訓練して、ケンショーエンの危うい右手首を保護し補完するよう

切り替え習慣もし始めていたりする。

 

残念ながら、カメラが問題で、アレは必ず右利き用にできていて

とても融通がきかぬ、好ましくない道具だな・・・と文字通り痛感している。

今さらながら、左利きの皆々様、右利き社会でごめんなさい・・・と反省至極。

 

左利きを忌避する習慣とは、なんのために生まれてきたのだろう・・・

やはりウンコふく手は左手限定だったのだろうか???

そのように習ったこともないし、実際は右でふいている私である。

然るに、ことごとく右手を酷使する社会、日本。

 

右手を不自由して、心底困りはてて生活している方々も多かろうものだ・・・

右手が使えぬ=人としてダメ・・・という男尊女卑同等の右尊左卑の思想が

根深くはびこっているワケだから。

 

なんかこう・・・ニンゲンもサルと同様、隙あらば他人を卑下したがるクセが

まったく抜けない生き物を感じさせられ・・・哀しくなる。

体が不自由、親族が罪人とか、ハゲとか、未だにガラケーとかね。

結局、愛だの絆だのいったって、サルのままじゃね〜か・・・クッダラネ〜と。

 

生物が、楽して相手に勝ちたい衝動は、今に始まったことではないから

こればかりは、あきらめるしかないワケで。

 

さてさて、老いとは哀しいものであることは間違いない。

一方で、島は完全年功序列社会である。

歳が上なら地位が上、みたいな感じだから、それはそれで便利なもの。

他方、私の年齢なら、下手すると?孫がいる年齢だから、

かわいいな〜と思った若い女性から、お母さんと同い年ですか?なんて

言われて、どえらいショックだったり!?

 

反面、美女なのに、20代に放っておかれた女性は、そのままに・・・

ま゛確かに、理由はありそう。 正直なところデブすぎだったり!?

でもね、やせるととても美女になるはずの女性が、もったいない!と思うことも

多々あるわけで。

 

もてないんじゃなくて、当時はデブでワガママだったみたいなので・・・それはそれで

厄介な残り者が、今はとても角がとれて優しい女性の様子・・・

とても素直な独身女性なのに、島では熟(う)れすぎ女性扱いに。

 

いい娘は子供のころから狙われていて、成人して残ったのは問題ありと見なされる。

男尊女卑も、ココまで来たか・・・という感じだが、そもそも女性も合意しているよう。

男から好かれないなら、そりゃ仕方ないわ・・・みたいな感じ。

南国はテゲテゲ(たいがい)なものの、本能的には、至極シビア!

 

もともと?という表現をあえて使うと、16〜18歳までには第一子を出産しておくのが

生物界における、ヒトとしての成長レベルにふさわしい、正しい繁殖時期だ。

無駄に高齢志向になっている現代には、かなりの異常さを感じる向きもあろう。

実際のところ、原始のままの生活を引き継いでいる少数民族などでは、少女は16歳で

少年は18歳ごろ結婚し、所帯を持つことが多いのは、本能とDNAの示す年齢による。

 

そもそも、人生が長くなったからといって、成長が遅くなったわけではなく

むしろ反対に早まっているのであって、現代社会の異常な性への反応は

おそらく増えすぎたことによるリバウンドだろう。 簡単にいうと「摂理」の影響だ。

増えすぎて、のんべんだらりと過ごせるようになった生物は、生活がユルくなる一方だ。

すなわち、繁殖に対する固執が失われ、繁殖力が低下して、やがて・・・というシナリオに

やはり人類も乗っかっているのである。

 

頭がいいやら悪いやら・・・

 

かくゆう私も、まったく繁殖にはキョーミがわかない。 生物としてダメだな。

正確に述べれば、キョーミがなくはないし性欲もあるけれど、家族を持つことを考えると

ウツが反応して吐き気がするので・・・脳の芯?から嫌がっている状態、なだけだ。

 

一方、繁殖しない、いや社会的に精力の弱いアキラメタ老人が増えることで

豊かな社会と考えてしまう、妙な社会性を身につけつつある日本人。

 

繁殖をアキラメタ個体は、その群れの足を引くだけで、なんらメリットが無い。

あるいは社会的に子育てを行うような行為をすらしなければ、もう無駄そのものだ。

 

これに反論する向きがあるなら、アンタなりの正論を述べたまえ。

なんかこう・・・災害が発生したときに、率先して人命救助するために命を投げるような

そういった役立ち機能でもあればいいが、最近は逆に孫を巻き込んで死にやがる。

 

高度な社会性というと聞こえはイイ。

だがそうではないく、数が増えた生物は、思考も行動もユルなってしまう。

繁栄してしまったことで、繁殖行動は減り、災害への危機感が薄れただけだ。

それが地球生物が、もともと持っている「摂理」のチカラである。

高度な頭脳なども、全く関係ない。

 

そもそも、高齢社会を問題と思っているかもしれぬが、危機を感じるか?

儲かるから・・・と高齢医療ばかり流行って、小児医療の後退する我が国が

仕方なく幸せな国・・・と思っているだろう? それこそ、ユルく仕向けた摂理のチカラ。

思考などでは制御できるものではないから、ユルいことこそ豊かで正しい、

なんて思うのは当然のことだ。

 

むしろ、こうした内容に、反社会性すら感じられる向きもあろう。

摂理とはそうしたチカラで、通常の生活と思考では抗えるものではない。

 

摂理が為そうとしているのは、ニンゲンの数の適正化だ。

常に危機感を持って、他者と死闘を続ける在り様を求めている。

だが、ニンゲンはもう、そのような在り方では居られないようなユル状態にある。

 

老いを受け入れる、本人単体には簡単なことだが、人類や社会にとっては大問題。

ユルくなり、社会的退廃思考こそ正しいと信じながら、社会を荒廃させてしまうのが

今のところ観察されている、摂理の影響である。

 

一方、

老化とは、癌の多発である。

生物の中で常に行われている自己破壊、アポトーシス。

それがDNAの制御を離れてしまうのが、老化。 年齢にして40歳を越えたころ。

40歳以上の癌は、必然で起こる現象で、むしろ病気とは言い難い。

 

多発し続ける癌医療は儲かる。 反面小児医療は儲からない。

とてもベタな摂理の働き方である。

第一、老人の方が手術の失敗で死んでも、悲しみも賠償金額も少ない。

子を死なせ、老人を増やして根本的な繁殖数を将来的に激減させる。

 

なぜか我々はそうした間違った社会を進んでいるのに、方向転換しようとせぬ。

私にとっては、不思議で仕方ないのだが。

 

現代の老人と、戦時の負傷兵は同じ働きをする。

戦争で大切なのは、殺すことではなく、重傷者を増やすことである。

介抱に手間もカネもかかる重傷者こそ、戦争で相手国を疲弊させる基本行為だ。

摂理は我々に、老人を使って的確に戦争を仕掛けている。

 

島では、ジジババは子育てのあてにされるので、身勝手な暴走はせぬ。

だが、都会で個別化した家族構造によって、はじき出された65歳世代は

なぜか徒党を組み、自ら死に赴く冒険を企画し、グループで死のうとする。

これは、摂理による新たな仕掛けといえよう。

 

春山に軽装で登山し、同世代のグループで遭難する。

最初から、そうしたかったのか?というくらいアッサリした間抜けな死にっぷり。

ヤキモキ救助に行かねばならぬ立場の方々は、哀れそのもので、かける言葉もないが、

摂理の仕掛けた仕組みとしては、あまりに判りやすい死にっぷりで

思わず、カラカラ笑ってしまう私である。

家族がある、頑強なレスキュー隊員すら巻き込んで、軽快に死のうとする65歳世代。

摂理の鮮やかな仕掛けっぷりに、笑いが止まらぬのも無理はないのだが

笑う私を異常なオッサンだと思うのも・・・あるいは無理もない。

アザ笑う私を異常と思うことで、こうした65歳同様のニンゲンを増殖するのが

アナタ方の仕事なのだと、摂理が決めているのだから・・・

私は過激な異常思考、アナタ方は正常、それでいいのだ。

 

地球史上、摂理に対抗できた生物は、存在しないのだから。

摂理に反抗しようとする発想の私は、いづれ社会的に葬られ、

摂理に従順なアナタ方は、自ら悲しみを増やし、もっと哀しく数を減らしていく宿命。

 

生物は死を恐れるからこそ進化し、本当に死ぬことで弱者を淘汰し、洗練された

DNAを得てきた。 その法則に乗り続けている以上、摂理には逆らえない。

DNAを洗練するためには、どのような形であれ、死が必要なのだ。

 

私はそれは計画死することこそ、次世代の生物、

摂理から独立できる可能性ある人類だと提唱するが、

もともと摂理に則って成長してきたDNAが、それを離れられるか疑問もある。

 

老化を生きるとは、そういうシガラミを背負い、若者が食べるべきものを

余分に食らい、繁殖とも無関係に生きを延ばすということである。

 

老後があるなんて、他の生物はそんなに甘い地球には生きていない。

 

数が増え、うたかたの繁栄に浸り続けたい人類は、いつまで幻想を続けられるか

疑問を持ち始めているところである。 温暖化による気象激化も一因で。

 

いろんな意味で、数を減らさざるを得なくなってきている人類。

 

さて

この際、理屈でもヘリクツでもドーデモイイが、

科学が薄い国ほど、個体の繁殖回数は多い。

成長するかどうかは別として・・・

科学が進むにつれ、繁殖とは別の意味を生活に求める。

人口構成がイビツかドーカは別として・・・ これは事実というより、真実だ。

 

繁殖を超える生物の意味は存在しないのだが

繁殖を繁栄と感じない社会性を得てしまい、限界を迎えるのが、

摂理の求める、地球生物の在り方のようである。

摂理がナニやら絶対的存在と誤解されそうなので、言い換えてみよう。

地球生物のDNAプログラム上では・・・社会性こそ、生物の限界点。

 

社会性による長命が、進化を遅らせ、次第に訪れるべき環境変化へ

対応できないから、種の一生を終える。

 

DNAは、死の積み重ねこそ、美しく強い姿を得られる、理想としている。

 

我らが、安寧の老いを重ねるとは、そうした理想を離れていく醜さを

体現していくということに他ならない。

のだが・・・年金でノンビリ生活することは、自由な夢想時間を増やさせ、

社会的アポトーシスを増進させていく。

 

島には、カネもないが家族が多い老人が増え続けている。

ゆえに、油断しておられず、孫や曾孫たちの面倒も見なくては、絆から離れる。

そうした危機感から、一見無駄に元気で、若々しい行動をする高齢が多い。

 

アレっ!    ん〜     ん゛〜〜〜  あ゛〜ダメだ、思い出せない話が

増加一辺倒で、ちょっと嫌になりがちな老人現象が困るが

私は好きな動物や釣りを、無駄に頑張ることで、その事柄をネットや

バードウォッチング教室などで、島の方々に還元することで、

摂理に対抗して生きていたいと願い続けている。

 

世に悩みは存在しないと、高僧が言ったとか言わないとか。

しかし、神代の昔より、世に摂理は厳存し、常に我々の存在自体を制御している。

摂理をナニモノがこさえたかは問題ではない。

在り続け、我々を知らぬ間に制御していることが問題なのである。

我々が、無限に幸せを増殖させようとすれば、摂理との戦は不可欠である。

 

死ににくい長生きや、永遠の命とは、DNAの進化停止と等価であり、

環境に合わせて進化できない生物は、すなわち生物失格である。

自分でいじくってDNAを変化させるか、改良容易な機械化する以外に、方法は無い。

 

そうした選択肢が得られぬ今は、社会的に子孫を保護し、成長させる役割を

強引に体現していくしか方法は無い。

 

それはそうと

老化すると、何もかも受け入れやすくなっていく。

体の一部がシビレル・・・ ま仕方ないな。 にわかに医者に行ったりせぬ・・・

CDが欲しい・・・なんて思わぬ。 iTunesのネットラジオのJAZZで十分・・・

新しい仕事用カメラ・・・ マップカメラで、全機種が20万円を切ったらで・・・

食欲わかない・・・ なら、安くてカロリーの低いカユが美味しいし・・・

これはアキラメというのだろうか。 とても合理的な判断に感じられるような。

 

いわゆる枯れた思考、というものだろうとも感じられる。

無論、これこそ社会的、個体的アポトーシスの極みでもあるのだが

コレはコレでなんか、ユル楽しいなぁ〜と感じられたりするのが、齢の面白さ。

 

ユルいことを受け入れすぎてしまう社会、ゆえに無駄が多く苦労する社会。

それが豊かといってしまって良いかどうかは知らぬし、考えたくも無い。

 

少なくとも、老いは古来より人類の敵であり、忌むべきものであることは確かだ。

だからこそ、老いの只中にいる私は、老いを受け入れ、老いを明かし、

老いそのものの意味を、体験しながら考えて生きたいと思う・・・このごろ。

 

長大な老いは、霊長な生物のみが対面できる事柄であって、

我らこそが開拓者でなければ、我らの絶滅後の生物に引き継いでしまうしかない。

我らは、老いの開拓者でなければ、絶滅する運命・・・ってことで

老いをジタバタ考え抜き、アタフタと動くことは、実は大切なのである。

それは若者を巻き込んだ、無駄な死をもたらすキッカケになる危険性をはらみつつ。


ではまた