いやし系、いわし系

 


悩みもユウウツも、あるいは喜びも・・・あるいは愛情も?

全て、心という現象が脳内に作り出した物質である。

薬で停まってしまう情動、心は化学で構成され稼動している。


ただ、冷静で居られない現実を垣間見た気がする。

デカルトの劇場を客観視したいという思いが多重連鎖を生むと

ひとつの脳内物質(人格)では処理できなくなると感じている。

限界は意志の強さか、それともあきらめか、割り切りか???

何らかの生体的な制限が働く間は、真に悩むこと(無限ループ)

に陥ることはないだろう。

簡単に言うと、

自分を見ようとする自分を、更に見ようとする自分が

その上から客観しようとする自分を更に・・・自意識の合わせ鏡か。


いやー先週は、本当にヤバかった。

本当に死んじゃうんじゃないかと思った。

迷い、弱気で、怖い一週間だった。

ガス屋にしてくれた友よ、本当に申し訳ない。

勝手に自己崩壊して心配かけてしまった上に

ぎっくり腰まで・・・

ガスパッチョフェアにも出られずで。

 

でも、かえって会社に行ったら、ちょっと落ち着き

ギックリ腰の不安はちょっと残っているが

気心の知れた仲間と働くのは、やっぱりいいもんだ。

 

足りないのは自然だけ・・・これが最大最終の問題。

長男にとっての四季未満の環境変化に乏しい世界が

退屈極まりないから住み辛いのだ。

 

アジアの都会ってのはバランスが悪いんだよなあ。

自然と調和することを知っているくせに、結局排除して

せせこましい貧民街みたいな都市を形成してしまう。

(もともとヨーロッパには台風もなければ地震も少ない)

災害には一番苦しめられてきた民族なのになぁ。

 

おかげで人間が作った、無機質だったり、ゴミゴミだったり

時とともに味が出ないでしなび、古びていくだけで

住宅街すらも、いわし系?いや、いやしとは反対の

サバサバとした空間に変わっていく。

 

むしばむ様に無秩序に広がり、残った森や田畑を

マンションや分譲住宅地に変えてしまう。

現代の建築は、都市づくりは、経年によって劣化するだけの

使い捨て型になっているからだろう。

 

言っても江戸の家並みや自然が取り戻せるわけでもないので

とりあえずまた食べて元気をつける。

外の風景を見ると、やたらにイライラするが

腹は減っているので、文字通り背に腹はかえられぬ。

ヤオチュースーパーで買い物だ。

 

ちょっと前までイワシがいないと報道されていたのに

魚屋には安い大羽イワシ(マイワシ)が刺身用で並んでいた。

先々週は確かでっかいウルメイワシだったのに・・・

5匹で300円!?漁船のガス代でないんじゃないの?

地引網?それとも定置網?

円高だからガス代下がったのかな???

脂ものりのり、マグロもカツオも喜ぶイワシ系だ。

よく見てないが、ひょっとすると水温が高いので

案外南方系のミズンかもしれないなぁ。

 

にしては、脂が乗っているが。

 

あばら骨もとらない、中骨もとらない、骨ごと食べる刺身。

今度は皮も引かず、背骨もとらず、セゴシで食べてみようかな。

小魚の生食の基本はセゴシを酢で食べる。これ縄文の知恵。

(海の白身魚は小さくても骨が太いので気をつけよう)

 

やっぱり、食べるって事は基本だなぁ。

食欲がわかないのが厄介だが

食べると少しずつだが元気が出はじめる。

 

先週のアレコレで、長男の弱点が分かった。

凝り性なのに、飽きっぽい。

人間嫌いは、無差別ではなくて、やることを見つけようとせず

街に出てウダウダで時間つぶす「状況」を見るのは不快!なのだ。

先の使い捨て型都市なので、単に新しい街並みに人が群がる・・・

 

自分に余裕がないためか、余裕を超えて無駄を見ると、もったいなく

勝手に腹立たしく感じてしまう、別に他人などどーでもいいのだろうが

気になってしまう性分なのだ。

でも、大きなお世話で他人には言えない・・・

だから、葛藤を抑えながら、街に耐えて居られる時間は

「買出しのみ」に集中していられる時間だけ。

 

3分よりは長い。 

 

その割には、不眠症でゴロゴロリーンとしているだけの

自分が可笑しい。

暴走する思考と、迷走する社会、ま、おあいこかな???


ついでに、よくよく思い出してみる。

 

小学校は山口、中学と高校は伊勢だった。

今にして思えば、すでにその時代、幼少のころからあったデカルトの劇場を感じる自分に

違和感を感じ、自己が生きるという現象を客観視し、本来の自己と違う現象ではないかと

疑問視し始めていた。

大学は愛知の長久手町、当時はキジが畑でノンビリし

梅雨の季節には、矢作川に天の川のような蛍が舞っていた。

大学の湖では、ブラックバスを釣って、貧乏をしのいだもんだ。

 

別に田舎を選んだわけではない。

 

会社は、長男にしてみれば最初の都会生活だった。

半年くらいして、生活に疑問を感じて、借金して車を買い、

出不精に歯止めをかけようとチャレンジ。

 

ごみ収集場をちょっと掃除した程度、ドブネズミが走ったり

声が排水口から聞こえる街、大阪N川市の生活に疑問がわく。

 

人生の疑問を晴らすために、車で毎週のように通った。

和歌山の南端、いわゆる本州最南端の潮岬の

まだ先の「トバナ」の岩の先に高い岩がそそりたつが

そこへ立ったり座ったりして腕組みして考えていた。

180度以上展開する太平洋を見ながら考えると

自分の悩みがちっこくなっていく。

 

その後は、ぐるり反対側へ回り、伊勢へと走って一泊し

また大阪へもどる生活をしたもんだった。

 

無意味な紀伊半島一周生活に、少しは張りが必要と思い

当時バブル頂点で流行っていたスズキのルアー釣りを始めた。

 

始めてから半年後にようやく一尾を釣り、それからアチコチヘ。

和歌山は日高川、富田川、日置川、周参見の磯、古座川に

熊野川、伊勢では宮川、ひるがえって日本海側では由良川、

小浜の北川、南川、ちょっと離れて温泉のある城之崎の円山川、

琵琶湖へブラックバス退治に出かけることもあったし

高知の室戸から足摺を経て、宇和島へいたる川や磯をまわった。

 

ルアーは釣れない、さっぱりだったが

いろんなものを見つけた。

輝く夜光虫やウミボタル、浜辺を歩くキツネ、案内板で休むフクロウ

一方ではハマボウフウ、ハマダイコン、

歯ごたえの良い天然のオカヒジキなど野草も覚えた。

温泉でもないが、温かな漁師まちの風呂屋なども行き着けた。

 

二人以上だと「自分たちの価値観フィールド」にこもってしまい

旅先でも普段の生活の延長で居ようとするが

ずっと一人旅だから、自分の世界を背負っていても

旅先ではまったく通用しないし、理解してもらえない。

したがって、長男は少しずつだが、旅に慣れていった。

が、車の旅は独りの時間が多く、やっぱり閉鎖的だ。

 

独りになろうと思えばすぐに車へ乗ればいい。

 

が・・・関東に来てからは変わった。

伊豆大島は小さいながらも船の旅。

沖縄は始めての海外みたいな遠征というか、異文化への旅。

ぬくもりを感じながらも、旅人向けの対話の切替と

地元の人どうしの対話が違っていることに、すぐ気づく。

 

しかし、一人旅はその壁を取り除きやすいことも分かった。

自分の世界の価値観は旅先で無意味化されるから素直になる。

すると誇り高い地元の方達は逆に僕に教え、語り始めてくれるのだ。

こちらの常識など、鼻先で笑われて終わる。

最初は不快だが、慣れてくると自分の視野の狭さに気づく。

過去の差別や因縁が生きており、うかつなことをホザけば刺される。

日本にはまだまだそいういうところが山ほどある。

 

自然とともに・・・というより、自然に耐えて生きている人らは

人間社会と自然を半々で、政治に至ってはお飾りでしかない。

増税は、節税できるし、消費税は自家栽培や親戚間で何とでもなる。

何でもお金で購入する人らと、そうでない人らは、根本のスタンスが

あまりにも違うから面白い。

 

もともと役立たずを露呈した民主党でも自民党でもドーデもいい。

 

田舎というものは、稼ぎこそ少ないが、金だけで成り立っていない

コミュニティなので、サラリーだけで暮らしている人らとは

全く違う生活スタンスを持っている。

 

最悪、政府とかインフラ、ネットワークが崩壊しても、自活していく。

なにせ、さほど昔と変わらぬ生活が基本だからだ。

 

旅はさして学びの場ではないが、経験の場だ。

知っているのではなく体感する機会だ。やばいこともある。

ただしそれは、一人旅でなければ難しい上に

相手の生活ペースに身を任せることが経験への切符だ。

これには多分、スタンプラリー(行くだけ、見るだけ)の

旅では得ようがない真実が潜んでいる。

 

住むことが最も良いが、住むかどうかを決めるためには

その前に得ておきたい経験があるだろう。

 

雑誌とか、聞きかじりでは分からない因習に満ちた社会が

覚悟をせよと待ちぼうけている。

 

大阪で働いている間に

いつしか、自然と戯れるというか、自然が足りない欲求を

紀伊半島からアチコチヘ広げていった生活をしてきたようだ。

きっかけが釣りと決めたので、釣り人として歩き回ったが

おそらくそれはイイワケに過ぎなかったのだろう。

自分でも気づかなかったが。

 

あるとき、鋭い寮母さんが言った

「逃げてるんだと思ってた」当時は全然そんな気はないと

思い込んでいたが、都会の荒廃から逃げていた事は

確かなことだと、今ではハッキリと分かる。

 

面倒な精神構造は、こうして何十年も培われて来たわけだ。

 

そりゃ、今になって変われといわれても、

よく分からんが長男が養子に行くのと同じくらいの難度が

顕在するのではないか。いや、それも場合によりけりか・・・

 

家とか名前とかはさして問題でなく、DNAは残るのだから。

男が苗字を変えないという、くだらないプライドを持つから

生まれた因習だ。

 

一学年で25人、デザイン学科は人数が一番多い芸術学部だ。

三重県出身者がどれだけそこへ行ったのか知らぬ。

十数倍もあった受験者数のわりに、すんなり合格。

 

数字が嫌いで嫌いで、好きな絵を描いて生業とすることができる。

その一心で半年間修行を積んだが、好きな絵だから

スランプこそあったが、思ったほど苦しくはなかった。

ただし、緊張感は並大抵ではなかった。

なんせ長男がロウニンするわけにもイカンのでね。

無論、高額な私学を滑り止めにできるような

甘い経済状態の家庭ではなかった。

 

もともとロウニン覚悟で挑んだ難関、母は泣いたが

父はドラマのように冬の海を前に、北風と伊勢湾のしぶきを

少し顔に感じながら「お前のやりたいようにやれ」と言った。

 

多分、父もそうしてきたから、今のおやじ殿があるのだ。

家族があちこち転々としたのはそのため。

結局、合格しても母は喜びに泣いていた。

 

当時の共通一次試験で平均点チョイ上の650点をクリアしないと

なぜか二次試験を受験できない、頭でっかちな芸術大だ。

ちなみに、三重大の教育学部の美術は450点がボーダーだった。

 

緊張をほぐすために、なぜか床で柔軟運動をしながら、

単語カードをめくって、日航機墜落の報道番組を見つめたりして、

机の上以外でも勉強していた。

頭が固いので、体から・・・というのは高校生のころに思いついた。

 

デザインセンスは慣れで何とかなるが、

センスの感度の良し悪しは素質に依存するみたいだ。

しかし感度が高いと、ほかのことも気になり、

現代では思わぬことにハマッてしまう。

僕の先輩も同輩も、心のトラブルで休んだり、会社を辞めたりした。

(これは長男の感度の良し悪しとは無関係・・・)


話はいわし系からずいぶん反れてしまったが

先週からずいぶん頭の中が整理されてきた。

 

いまの残り少ないヤル気を注げる事柄は・・・

一、徳之島のような固有種を育む自然の姿の「変化を記録」すること

二、自分の食べる野菜は、畑を耕して自ら育てること

三、食べるために、魚は絶対に逃がさず釣り上げること

四、パソコンに苦手な人には、ワンコインで使えるように教えること

  (お金をいただくのは儲けではなく、損する!と思うと真剣になるため)

五、貧乏暮らしでも、料理などの技を活かしパートナーと楽しく過ごすこと

である。

 

じゃりじゃりと骨の当たるイワシのトロトロの身の美味しさ

僕のパートナーになってくれる女性には、この味も無理強いします。

最初は食べにくいかもしれないけれど、

トロトロの身を舌で転がしながら良く噛むと、なお美味しい刺身。

味わい深く、顎も使い、カルシウムも豊富、調理も簡単。

イワシの骨は優しいので、歯には挟まるが、ノドに刺さったりしない。

自然の暮らしは、ちょっとの覚悟さえあれば、豊かな生活なのだ。

おー、今度は脂少な目なウルメでシメいわしにチャレンジか???

 

保存食の酢じめにもチャレンジせねばなるまい。

 

我が家のおふくろ様オリジナルの酢じめは、酢にしょうゆが入って

味付け不要なすばらしいアイデアの酢じめである。

漬けを応用したのだろうか???

だが、漬けは長男が持ち込んだ文化だ。

酢じめが嫌いなおふくろ様が生み出した、不思議な調理法である。

鮮度の良い大型のサバや、小骨も太かろうという大型のコノシロ

(小さいのはコハダね)をおふくろ様が酢じめにすると最幸である。


しかしながら

都会だからこそ、できの悪いアミューズメント施設みたいな

街並みばっかしだからこそ、違う生き方をしてみたい、とも思う。

枯れきったかに見える中にも、アレルギー、アトピーにならぬ

生活の仕方を見出したいいと思うこともある。

大切なのは自然とともにあり、健康であること、

変わり続ける貴重な自然の今を、記録し続けること、

田舎暮らしに憧れているわけではない。

 

しがらんだり、ローンだのに捕まって身動きできないで

関東に居なければならぬ大切な友らと南関東大震災を共に乗り越え

更に関東の温暖化を、南国リゾートと楽しく過ごす手だってある。

 

長男は単純に、幼稚園のころから一本道を歩かず、

道草だらけで、道草を超えたところにいつも身をおいて

周囲を困らせながら生きてきた・・・のかもしれぬ。

常に人間と自然か何か知らぬが、社会の端っこで

人間社会と接する人ならぬモノ達と接することで、何かを感じてきた。

 

多分今も同様だ。

 

肝心なことは、子供のころに土と接すること。

農耕とか関係なく、土には膨大な雑菌というか微生物が居る。

それらと接して、抵抗力をつける事が大地に生きる者の知恵。

コケてすりむいただけなのに、グジャグジャに化膿することもあった。

日本人は抵抗力が弱く、コレラに感染してしまうのはこうした

小さいころの細菌との駆け引きが足りないらに他ならない。

子供のころ、たくさん腹下しをしたり化膿したり、熱を出したりした人は

モロイ体に成長したりしないと考えられる。

アレルギー体質は更にやっかいだ、食品や周囲の農薬散布、

車の排ガスがからんでくるらしいから、都会ではかなり不利になる。

 

長男も喘息もちだが

山口に居た幼少のころは、周囲が全て水田。

ものすごい農薬散布に悩まされ、次は水田が宅地へ変わり

セイタカアワダチソウに悩まされた。

アレルギーは化学物質も、植物も影響しているようだ。

 

一方

都会に出荷される産物には、全て防腐剤および農薬が

生産者が自分たちで食べるモノ以上に含まれている事を

覚悟しなければならない。

運び、土地代の高い売り場で日持ちさせる・・・

当然の処置である。

 

例えば、大根やにんじんの根には基準があるが

葉にはない・・・思わぬ生活の知恵が、かえって悪化を招く。

ペットフード同様、人間の食材にも法の落とし穴は現存する。

 

大根葉を犬猫の食事に加えている向きもあろう。

犬猫やペットは、人間よりもはるかに細菌抵抗力はある。

が・・・化学物質への抵抗力は人間同様だ。

 

「ペットは家族です」などと誇る向きには、

ちゃんと同じものを食べて、自分たちの体で感じるべきだ。

大切なことなんだろ?家族なんだから。

長男には飼い殺しを家族と言う世界が信じられんがな。

 

分解不能物質は人間同様、肝臓に蓄積されて

あふれたら、カネミ油症のような、とりかえしのつかない

発病に至る。

 

知らぬが仏、とは良く言ったと思う。

知らずに仏になってしまった方々、動物達は数多く存在する。

改めて、冥福をお祈りする。

 

ついに食べ物の危険も明らかになった今、本当に輸入して

済むものなのだろうか・・・・改めて経済原理の非人間性を感じる。

使い方を間違えた、暴走としか思えぬのだが。

 

改めて書くが

隣の人が食べているからOKという尺度はもうなしだ。

みの○んたに、のせられるのもNGだ。

食べ物は産地の人に聞け、が基本。

それから、土を触らない生活は、体を弱くする。

特に子育てには重大だ。

薬の進化より細菌、ウィルスの進化のほうが早い。

反対に、寿命が延びたぶん、人類の進化は遅くなった。

世代交代こそが進化速度だからだ。

 

誰のためでもなく、

全てを排して、カネのために生まれた都市という特殊環境、

そこに生物として住むには、それなりの覚悟と知恵が必要だ。


400回特集というわけでは全くないのだが

ちょっと頭の中を整理する意味で、ダラダラリーンと書いてしまった。

あー頭使いすぎたから、イワシのDHAで癒されよっと。

 

ところで、人間は自己(自意識)を持つといわれるが、

同類によって育てられ、自己を客観視できるかのような

錯覚を持つに至るのは、

単純に脳により生み出される同類の力学的比較上生まれた、

他の固体中にある自分の位置づけを認識しようとする

すなわち、他己に過ぎないのではないか?

と、哺乳類の限界を感じるのだが・・・分かる???

(例えばオオカミに育てられればオオカミとしての意識を持つが

 オオカミとしての自意識は生まれずオオカミの社会性と本能に従うと思われるが・・・)

簡単に言うと、ネズミの暴走が熱湯の川に誘われても

誰も疑問を感じずに飛び込む・・・ようなものってこと。

他の個体中にある自分が、自分が信じる自分と同じようにあれと

思うことで、他人の価値観を借りて、自意識や行動を簡単にゆがめる。

何のために生まれた回路か知らぬが、厄介な代物だと思うのだが。

 

やっぱ、考えすぎかなぁ


ではまた