文明は その語の通り 限界が多い

 


 

世間のイザコザ

 

ハナフダ・・・じゃないやトランプさん。

いよいよ昔ながらの専制君主っぽい言動が、またまた愉快。 笑わっしょんな゛〜。

報道を締め出すなどと、自由を騙るメリケンにおいて、独裁マルダシな大統領は面白すぎる。

いわゆるオオダテモノが大統領に成れたというか、どこかのチカラでなったわけだが、

お金持ちのボンちゃん息子でなくなった彼が、ナニかやれることがあるのだろうか。

残念ながら、科学全盛になったために、メリケンは格式とか伝統を重んじることができない。

ゆえに、せっかくボンちゃん生活をしても品格が育たないのである。

結局、歴史の浅いメリケンが文化を育むことができぬ限界が、トランプさんの姿であった。

そういえば、守ってやるから金払え・・・と議会で述べちまったが、なら国連に金払え。(笑)

国連はシロブタどもを資金援助し、はびこらせるためのプラットフォームではない。

 

絵空事でありながら、品位や地位を獲得した最たるモノが、宗教だ。

根拠もナニもないのに、平和を揺るがすほどの地位を得た。 継続はチカラなりである。

いづれ、言論統制も自由だ!という自由の在り方が生まれるかもしれない。

自由という言葉が暴走し、あるいは宗教化することは、充分に在り得ることである。

その時点のご都合による自由は、いったいどのようなものなのなのか・・・恐ろしい。

 

現代においても、同成婚を認めるとか、なんの進化にも貢献しない事柄を安易に認める。

より未来においては、DNAを変更し、性別を無視して繁殖可能になれば、それは大いなる

進化となるのだが・・・そんなこと、ダレもわかってなかろうし。(涙)

 

某釣り具メーカーの番組、ライトタックルで狙う五島のヒラマサ・・・だそうだ。

PEライン3号でライトタックルかぁ゛〜 このごろ男子の御用達だと、これがライトという。

さすがに、ベテランのM越氏は2号で3500番のリールなのが笑えた。

確かに、私もライトで許せる限界がM越氏のタックルと同じだし、我が家の道具立てと一緒。

というのも・・・船で、せいぜい数キロのヒラマサなら、ラインは1.5号でも十分である。

けれど、ヒラマサはン十キロもアリなので、やはり2号で狙うのはアリかな・・・と思う。

三宅のテッチャンなら、余裕で20キロオーバーも楽勝だろうし。

 

ただ・・・細仕掛けだと、ドラグ設定が軽くなり、ジギングのシャクリによって糸がジリジリ出され

アクションに差し支えてしまい・・・ヤヤコシイ。

やはり、世の中は初心者向けにしておくのが吉、ということか。

太いと不具合が多いのだけれど。

 


 

これはゼンゼン違うと思う。 パナのタフシリーズの新製品。

いかにもスゴイセットっぽいし、最強タフパソコンっぽいが・・・コレはハズレだ。

タフパッドを毎日使っていればすぐ判ることだが、メーカーはチャレンジが大好きだ。

 

タフパッドかタフブックが便利なのであって、別にアイノコの必要などゼンゼンない。

CPUやバッテリーが液晶側にあると、バランス面での弊害が大きすぎる。

 

世知辛い現場で、トランスフォームを愉しむ余裕などありゃしない。

加えて、トランスフォームなら、もっと鮮やかにトランスフォームすべきで、味気ない。

ぬるい雇われ人生を送る社畜が多い大企業は、ソノヘンが鈍いのは仕方ないコト。

いろいろと遅い進化の過程でロスを出しながら、方向修正していく。

 

とはいえ

タブレットを用いていると、つい欲しくなるのがキーボードとマウスには違いない。

そうなのだ、半端なノートブック風でなく、必要なのはデスクトップ同様の操作性なのである。

 

手袋でも使えない、テンキーもない、はたまた液晶側ヘビーで転倒しないよう

無駄に重いだけのキーボードユニットに、どれほどの値打ちがあるのだろう。

丈夫な液晶カバー役にしては重すぎる。

反面、ドッキングを前提とするあまり、タブレット単体としては甘い造りになっている。

フラットになればなるほど、液晶は割れやすくなる。

 

ぶっちゃけ、現場でテンキーのないパソコンは、あんまり役には立たない。

それに、インターフェイスが増えたところで、蓋を開けたら防水でもない。

かといって防水のケーブルや、機器をラインナップするでもなければ、

タフネスで超高感度のGo Proのようなデジカメと、ワイヤレスで連携する・・・こともない。

 

とりあえず

コンパクトでしっかりしたスタンドと、防水のフル・キーボードとマウスがあればいい。

 

意外にも、防水のキーボードはあるが、マウスはない。

タッチパッドやペン先よりマウスが繊細なのは、自明の理である。

マウスの弱点は平板を用いる点だが・・・腕の一部を固定して操作する点で

ほかより安定感に優れている。 このあたりは、大き目のタッチパッドで妥協だろうか。

とまれ、テンキーは欠かせない。

 

マイクロソフトは気づいたらしいよ。

やにわに、サーフェイス・プロ用のエルゴキーボード。

サーフェイスシリーズが、意外と重くて使いづらいので、かなり知恵を絞ったらしい。

すると・・・これまでデスクトップ用だったノウハウを、慌ててサーフェイスに展開した。

でもこれ、サーフェイス風にするために腰が引け、アイソレーションになりストローク短い?

もしかして、似非エルゴ?(笑)

 

パナは、丈夫なノートパソコンだけを追究するあまり、志向が窮まっているのだろう。

世の15インチクラスがなぜ主流なのか・・・解からぬはずもなかろうに。

むしろ合体するならば、HPのWin10スマホよろしく、フルキーボード、テンキー搭載、

15インチノート風のドッキングステーション?にすべきだろう。

ガンダム00のセラヴィーにくっついている、セラフィムガンダムみたいな感じ。(笑)

 

にしても

タブレットが合体して、軽量ノートパソコン風になることが、本当にモビリティなのか?

かなり重いし。

あるいは、モビリティがあれば、操作性は犠牲にできるのか? いろいろオカシイ。

いったい、何年ノートパソコンを作っているのやら。

 

これまでのタフパッドシリーズは、なぜだかドカタ用デザイン・・・ぞろい。

スマートで丈夫なシリーズにはならぬのか? ならないのは、たぶんヤル気の問題。

ドカチンデザインなら、カナリ重くても許されるし。(笑)

 

このごろのデザイナーはヤワで、家にドライバー一本持っていないのだろう。

夢想しただけの、筋肉質でもない、ヤワヤワ感あふれるタフ?デザイン。

ナニワのヤワ・デザイナー衆の限界かもな。(笑)

まさか、ノーアイデアなJKに、スマホ開発のヒアリングするようなマネしていたりとか?

  

もう少し感性をくすぐるような道具観を持ってもらいたいなぁ。

屋外でパソコンを用いるのは、なにも建築業や配管工、ガス屋ばかりではない。

森や街のガイド、教師、ビデオ/スチルカメラマン、映画監督、保険屋、救命士、

役場職員、画家?、外好きなデザイナー、紙芝居・・・とか?(笑)

 

雨天の現場などで用いる際、高さのあるスタンドが欲しくなるシーンも多いから、

三脚座か、三脚に固定できるクランプがあるに越したことはない。

無論、三脚用のネジ穴では加重が分散できないから、クイックリリースプレートが好い。

このごろカメラ界では、ごついアルカイス互換というのが流行りだ。

 

んま・・・とりあえず

注目を引き付けるには、目先を変える・・・というのは、ルアー釣りでもアリだから、

そういうヤツということか。

 


 

今シーズンの受験では、文系が人気だという。

ぶっちゃけ、文系が科学を導いた結果があるだろうか?

皆、役所勤めをして、おろそかに人生を歩みたいのだろうか??

文明とは滅亡を目指すニンゲンの限界か???

 

文 文明 文化

 

ポン人の学問的行為の、根源に横たわる語彙である。

 

さて

人類は創業から数百万年とされる。

創業以来、進化をもたらしたのは、二足歩行と手の自由、脳の発達である。

そして、手を用いるとき、なぜか利き手が発生してしまう。

 

文明、文化とは、正に的を射、言い得ていると感じたことはないか?

発言が記録されることにより、伝承が一定に保たれることで、知が蓄積、改良され、

高度化の歴史をつむいできたのだから。

 

伝承こそが、知的進化の動力そのものであり、いよいよ科学を育んできた。

しかし現代、科学の限界が言語の限界にあると思い至るのは私だけはないはずだ。

 

論文・・・である。

 

んま゛〜論文のイイカゲンいや曖昧さといえば、そりゃもう大したもんだ。(笑)

仕方ないことだ、全く新しい現象であっても、古くから伝わる言語で表現するのだから。

文字と数値で表すのに躍起になるあまり、失われている現象も多かったり。

 

確かに論文は、なくてはならない。 だが、論述自体に限界がありすぎる。

ゆえに、論文だけでは論述しきれない現象が、この世にあふれている。

 

発言を文字化し、イメージを伝えることで劇的に進化した人類。

こと現代において、論を文(言葉と数値)だけにしておくのは無理があるが・・・

そうした現象は、現代の大学においても、脳力が低い教授のもとでは重視される。

 

なぜなら「論文」というコトバに縛られやすいからだ。

もとより士農工商を経たポン人は、Mが大半を占める。 だから縛られるのも慣れっこだ。

 

無駄に文字化しようとすることで、探究がおろそかになってしまうのである。

 

例えば女子が、ムキムキの筋肉を見た時に

筋肉すげ〜 と言うか 発達してますね と言うか・・・品位としては選んで欲しいものの

論述的には同義であり、表現自体の差異は無意味なことだ。

あるいは、それはメリケン語とポン語の差異だったりもするのである。

 

表現力に優れることは必要だが、真に品位が必要かビミョ〜なのだ。

他方で、学術には、あるいは説得力には、品位と節度、良識が必要だ・・・も然り。

だが、高度になるにつれ、それらはトランスレートされて然りだし、そういう俗的なレベルで

論述を否定するのは、大きな損失かもしれない。

 

文明が示す通り、文字化することで口述よりも伝わりが安定し、

伝承者の真意が、虚飾や忘却されることなく、明らかになった。

 

しかし、複雑な社会になると、言語が事象に追いつけなくなり、正確さを失っている。

言語に代わる、伝達手段だ必須となった時代にあって、論文はどうなの?と思う。

表現の限界を超えた事象を論述する事は、無駄かもしれない。

無論、新たな語彙を発生させて対応するのが、相応の進化ではあるが・・・

原始的な伝承手段に固執する必要はない。 こと学術、科学の分野において。

 

ドラマA LIFEで、凄腕の外科医が論文を書いていないと指摘するシーンがある。

だが、安易に論文発表して真意が失われ、ウカツな外科医に用いられれば、害をなす。

 

昔のように、チームワークによるマンモスの捕らえ方・・・のような伝承ではなく、

緻密精密、筆記限界を超えた事柄について伝えるのには、言語は心もとない。

 

ホントか?というアナタに、簡単かつ存分にツッコミ入れてみる。

 

10を、キッチリ三等分きるか?

 

数学も文字だ。 文字化するというのは概念の記号化である。

記号化の際に間違えると、カンタンなことすらできない。

これは10進法の大きな間違い。 12進法の優れた点を、すっかり忘れていたらしい。

もともと、世の中に5で割る必要性が、どれほどあったのだろう。

指の数といえば聞こえはいいが、指の数だけが勘定の基準とは・・・サルか?(笑)

 

科学を進化させるのなら、私はまず10進法が障害になっていると思うぞ。

たとえば、いろんな歴史があって、私のような偏屈が世界を制し、

7や31進法だったとすると、おそらく12進法への変換テーブルが考案されたはずだ。

 

割り勘や、設計において、3で割れないことは、まったく不便で美しくない仕組み。

無駄に小数点を使う必要もない。

なぜ国会で論議されないのか・・・ 文科省で検討されないのか・・・不思議である。

 

問題は、向上心だ。

安定志向のみのサラリーマンと、疲弊した非正規雇用、そして若手不足。 

どうあっても向上のしようがない状況である。

だからこそ脳力が高いとか人的ハードでなく、

思考や科学を深めやすい環境といった、ソフト面を改善すべきなのだが・・・

 

別に、基本たる文教と、応用たる科学が、必ずしも一体でならぬワケでもない。

一般的な数学、スカラー量は科学においては現実的でないものの、

一定した重力とみなされる場における仮想的な計算手法であり、

誤差を無視して計算を続けられる環境においてのみ実現可能・・・というオトナの事情もある。

教育用としては、わかりやすい方が優れている場合もある。

 

私たちの知識は、ほとんど仮想の上に成り立っているだけで、別に絶対でもナンデモない。

ひょっとして、アインシュタインの理論をマに受けているとか? あれにも穴はありすぎる。

そもそも、時間とはナニか?とか。

 

私たちの感じている時間は、実は全く、個々人によって差異がある。

 

あなたが信じているであろうアインシュタインの相対性理論によれば、

重力によって時間が異なるから、体重によって時間は異なる。

重力によって光が曲がるということは、減速され、時間の進みは増加されるのだろう。

つまり重くてデブほどアインシュタインのせいで、歳をとる・・・のだろう。

 

お気づきだろう。

ならば、体の部位によって比重が異なるのだから、時間の差異が生じている・・・と。

極々微差なので、考慮する必要はないけれど、時間とはそうした柔軟性を持っているし、

細かな空間ごとに進み方が異なっているのである。

 

ダイエットした方が、相対的に長生きできる・・・体重相対性理論。(笑)

 

違和感があるのは、時空間がこれほど柔軟であれば、一つの存在であり続けることが

なぜ可能になっているのか・・・イメージできない。

骨は50.0歳で、胃袋は49.997歳、指先は49.994歳とか・・・でもくっついている。

私たちが感じている、時空間の区別、違和感は、それほど大した現象ではないのかもしれない。

あるいは、常に分断され続ける体組織を、修復し続けてこそ生物・・・とか?

 

おそらく、私のアタマにある時間と空間の次元の分割が、過去の土星の輪の解釈よろしく、

雑すぎて矛盾が生じているのだろう。

 

文字は一見、画期的な仕組みだったが、もはや原始的でもある。

概念を共有することは、生活環境や言語が異なる場合は、正確には伝わらない。

そもそも個々人によって感覚には差異がある。

 

私たちが、知的生命であり続けるためには、それらを画一化する必要があるのか・・・

それともバラバラで不正確な方が、バリエーションが生じて好ましいのか・・・

少なくとも、先端の科学や、霊能力といったレアな事象において、言語が通用しないのは確か。

 

そもそも

私のように痛いのを好いと感じられる者に、痛みを苦痛として伝達するのは難しい。

目の見えない者に色を伝えらえないが如く。

  

世界唯一の客観性を実現するのは難しいが、ある程度の世界共通意識があるからこそ、

コミュニケーションは成立する。 んま゛〜 おんなじ人類でもあるし根本は同じ。

しかしながら、脳が発達し、カミなどという大きく思考のズレが生じている現代において、

概念や感覚を共有することは難しくなりつつある。

 

もともとは

別々の進化を遂げていくはずの個体群が、言語を得たことによってつながってしまう。

それは進化の阻害なのか・・・はたまた、それこそが新たなる進化の道なのか・・・ビミョ〜だ。

 

このごろ

「正確」に物事を記述しようとすると・・・文字の限界をもどかしく感じることが多くなった。

もう歳だし・・・根本的な、文章力、記憶力の問題かな。(笑)

 


ではまた