鳴かぬので

 鳴かせちゃったよ

  アカショウビン

 


 

業界の(笑)?

 

釣具メーカー、ダイワの釣り番組で「日本海のライトショアジギング」の番組タイトルなのに、

釣れないから船でやりよった・・・やっぱり、あのオチョウシモンは口ばっかりだったな。(笑)

浜の小魚は波打ち際に集中している・・・という常識を、知らない釣り人は多いのだろう。

釣り人には、よほどオバカな浜伝説が歴々と存在するのだろうなぁ。(苦笑)

波打ち際は酸素が多いうえ、小魚の逃げ場である・・・そのくらい常識である。

海はシステムだから、自己中心的に釣りとか魚だけを知ろうとしても無駄なのだ。

夏の浜で、波打ち際をのぞいて見るだけで理解できることなのだが、知らん人は多い。

数センチの波のなかも、立派に海洋なのである。 生物の多様性を、ナメてはいけない。

感覚が鈍いニンゲンは、あくまでも自分視点でしか考えが及ばないから、鈍いままだった。

 

「石棺」 ・・・自ら、ぶっちゃけちまったかぁ゛〜。(笑)

メルトアウト・・・核燃料が土中に解け出たことを隠蔽するのに全力だ。

関係者一同、自分が存命の間にはバレたくないわけだが、事実は変わらない。

とはいえ、技術的だとか予算的だとか・・・引き伸ばし策は講じられるだろうし、

少なくとも管さんが90歳以上になる、2045年以降にならないと実行されまい。

世の中とはそういうものだろう。 原子力は、地球上でもっとも強大な兵器の技術であり、

その技術を放り出すわけにはいかないのだ。 属国でもあるし。

 


 

久しぶりに林道で遊んできた。

たま〜に、鳴きマネを試したくなるのだ。

戦国武将も鳴かせられなかった夏鳥を・・・お手軽に鳴かせてみた。(笑)

アカショウビンは、鳥好きには人気の夏鳥である。

ホトトギスのようにメジャーでなく、内地で出逢うのは希な夏鳥だ。

 

謂うまでもなく、私は海派である。 なんといっても、山は退屈だ。

食えるものが無いし・・・居るものしか居なくて、トンデモな出逢いもない。

発見したところで・・・女子に自慢できるような生物がいるわけでもない。(笑)

 

私はいつからかダマシに憧れ、生活の中にダマシ比率が増えた。

記憶にあるのは、釣りキチ三平を読んだ、小学2年のころだったと思う。

ルアーなんぞで釣れるんだ・・・と知ったとき、たいそう感動した。

というより、その時点で私がすっかりしっかりダマサレタのだと思う。(笑)

 

爾来、折々にルアー釣りに興じてきたし、ダレもやらない釣り方が好きになった。

それは、釣り方を覚えるのではなく・・・魚の好む釣り方を探すことだ。

釣り業界が楽に宣伝やら開発しやすい釣り道具を用いていたら、

テレビなどでやっている釣り方では、釣りたい魚が釣れない・・・と知ったのは、

伊豆大島に行きだしてからのこと。

 

ヒラスズキは格段に美味い魚だから、関東でも是非釣りたかった。

しかし、伊豆大島のヒラスズキは千葉や和歌山のような大型のルアーでは釣れず、

小型で水をしっかりつかみ、足元までキッチリ泳ぐタイプだった。

 

青物は、昼間は地磯からは釣れなさそうだが、沖磯並みの地磯なら釣れるはずで

なにしろ、昼間なにも食べないで、燃費の悪い青物が生きられるはずもないから。

しかし、昼間に青物を狙うのは、たいがい船だった。

 

釣り人や業界中心に考えられた、古臭い釣り方そのものが、釣り伝説に満ちている。

そう気づいてからは、地磯で真昼にカンパチやイナダを釣るようになった。

 

ただし、ルアーには糸がついており・・・それを気にしなくなるタイミングは、

潮の変わりめと、朝夕の薄暗さであることは釣り伝説も正解であった。

 

自分の釣り発想が十分使えるな・・・と感じたのは、南大東でカッポレを狙ったときだ。

フルミナミの沖合い120mくらいだろうか、そこに幻のカッポレが群れているのだ。

たくさんは釣れないし、形は大きくないが、毎回複数釣っていた。

モズ博士と研究室の仲間たち、シマンチュと食べた刺身は忘れられない。

インターライン投げ竿で遠投し、さまざまな場所を探った結果である。

要は、流行の釣具を携えてポイントへ通うとか、楽して釣ろうと思わなければ・・・

釣り伝説に拠らずとも、いろんな魚にアプローチできるのだ。

 

いかんいかん、つい前フリが路線から外れてしまった。(笑)

 

動物写真の世界に没入してみると、今度は動物伝説みたいなものがドッサリあった。

どうも・・・自己中心で内地中心の発想に満ち満ちている。

  

動物はニンゲンを見たら恐れて逃げる・・・昔からの老人の口癖だ。

内地最強のマムシもその類で、逃げるのを待てというのが常識である。

だが・・・実はニンゲンが恐ろしいのではない。

ニンゲンは雑食性で、狩りもするが、さほど多くはなかったから、すべての動物が

ニンゲンと遭遇し襲われてきたワケではない・・・つまり、図体がデカいから、

警戒しているだけなのだ。

天敵として本当に恐れてくれている生物は、おそらく内地のスズメくらいか?

 

それは、とりもなおさずニンゲンはもっとも優れた能力をもち、恐れられて当然・・・

などというウヌボレに満ち満ちている。

 

ニンゲンは直立二足歩行でデカくみえるばかりで、体力はない。

脳と手の発達に興じていて、足は疎かである。

五感も、他に秀でているといえば、無駄に好き嫌いを生んでいる味覚程度。

 

ところで

南方から渡ってくるのに、内地ではアカショウビン、島のはリュウキュウアカショウビン。

数といい分布の自然さといい、内地のがキタアカショウビン・・・ではなかろうか?

南西諸島に生息する留鳥のコノハズクがリュウキュウコノハズクで、

内地で繁殖する愛知県の県鳥がコノハズク・・・どう考えてもオカシイ。 笑えるくらい。

どちらかというと、前者がコノハズクで、後者はワタリコノハズクではいか?

 

こうした学者さんたちの鈍ちんな名づけによって、図鑑を見た段階で誤解する。

ああ、南洋にはこういうのがいるのか・・・と。

シジュウカラなどは、アマミシジュウカラ、オキナワシジュウカラ、イシガキシジュウカラ

などは間違っていない気がするもののが、特に渡り鳥にはヘンテコが満載だ。

 

問題は、人類が高度な知識の普及を急ぐあまり「体系化」を見直さなかったことだ。

知識の普及を加速させた「体系化」が、実は知識の歪を産むことになっている。

知識には、概念化と体系化と解釈がセットである。

 

図鑑など生物の知識は、古来より体系によって成り立っている。 つまり分類。

人為分類はそれでいいとして、自然分類は今でも盛んに見直されている。

ただし、和名が見直されることはなく、似て非なるもの、あんまり似ていないものまで、

似た名がつけられたままで、知った瞬間誤解する。

カツオでもないのに、イケカツオ、マナガツオなどがあるように。

タイにいたっては、サクラダイ、イットウダイ、マトウダイなど、どんだけ居ることか・・・

ウズラとミフウズラは全く違うし、ウズラシギやツルシギなど合体したものも多い。

学名さえ正しければ・・・のような遊びすら感じられるが、素直な子供がウノミにすると、

あとあと面倒なことになる。 今にして思えば、学名で覚えときゃよかった・・・と思う。

学名は分類が変わると見直される。 にしても、ラテン語である。

 

概念化、体系化しなければ知識化が困難ではあるものの、

概念化や体系化の方向性を間違えると、それでなくても十人十色の解釈において、

ズレが大きくなってしまう。

古くは人間中心で、太陽も回ると解釈されていたくらいだから

どうしても人間は、自分を中心に考えすぎる嫌いがある。

生物なのだから、自分中心で仕方ないのだが、社会生活においても色濃く残る習性。

自然の解釈において、最も邪魔になる習性である。

 

知識の歪が、もっとも危険な領域にまで到達したのが、宗教だ。

概念や体系化が、解釈によって分化し、敵対を生み、今や戦争である。

宗教の弱点は、正されないこと、永劫に正しいことが立証されないことだ。

ゆえに、解釈が変貌し、間違いが常習化し、形骸化すれば、安易に異教徒を抹殺できる。

つまり、どれだけ人道的に間違っていても、宗教にとって正義や悪は定義でしかない。

と・・・極論しておこう。

とはいえ、周囲すべてを敵にする解釈は、よほどでないかぎり社会性動物には不可能だ。

 

ともあれ

動物として世界に身をおくときは、動物たちの感覚に合わせて考えることで

いろいろ私たちの知識の問題点、体系化の違和感に気づく。

 

たとえば

鼻も耳もいいアマミノクロウサギが、ガソリンエンジンののワンボックスと、

ディーゼルのダンプを同じ鉄の馬だ・・・みたいな判断をするか???

臭いも音も姿も似ていない。 ゾウとシマウマくらい違う。

 

それぞれ変な色をした皮(衣服)のニンゲンを、同一種と見なすのか?

 

そもそも鳥たちが、自分たちを大くくりに鳥たちだ・・・と感じるか?

もしあなたが、アフリカからやってきたセイタカシギに「あんたチンパンジーだよな」と

謂われたら、納得いくか? DNAでは、かすかな差しかないワケだが。

 

ニンゲンは、いろんな事柄をすぐに十把一絡げにし、知識の引き出しに仕舞いたがる。

仕舞ってしまえば、引き出すときも、その体系から外れない。

つまり・・・物事は手前勝手に引き出しへ入れる前に、ちょいと考える必要がある。

 

それが、動物写真に有利な、人間中心でない発想、知識の転換だと思う。

 

私が動物写真を撮るのは、ニンゲンと動物たちとの程よい距離が知りたいからだ

ということは、これまでも書いてきた。

もちろん、互いの反応は、いろいろな条件や双方の体調や性格にもよるので、

同種だから一定の法則性・・・という体系化は、ゆるめにしておく必要がある。

こちらが撮る気マンマンだと、動きがキビキビしやすく滑らかでなくなったりもする。

 

釣りもそうだが、互いが近い場合は無駄な動きや音は禁物だ。

ただし、ヘビは耳が無いから心配ない。 かわりに振動や熱が伝わる。

 

これまで全力で逃げ方向の距離感、だった撮影がガラリ変わったのが

鳴きマネ撮影であった。 (ようやく本題だ・・・(笑))

ルアーも、使い方によっては集魚力があるように、口笛にも鳥が反応して寄る。

ライバル心だったり、好奇心だったり、異性へのアプローチだったり。

 

リュウキュウコノハズクは商用化?してナイトツアーで利用してきたが、

アカショウビンは昼用を狙っている。

 

アカショウビンの鳴き返しには、かなりムラがある。

無視されることもあれば・・・遠くで応えるだけとか、数羽が集まり周囲で騒ぐこともある。

今回は、1羽だけが強烈に反応した。

 

通常、キョロロロロ〜♪ のあと クッカルル〜♪ と吹く。

すると興味を持った個体がやってきて クッカルルル〜♪ と応えるハズだった。

 

でも、こいつはクッカルでなく、ずっとキョロロなのだ。

とにかく天を仰ぐように背伸びをし、一途にキョロロ鳴きを続ける。

 

まるで、誰かを探しているようでもある。

キョロロロロは短いし、間隔も短く、切羽詰った感じで鳴いいている。

 

こちらに気づいていないわけでなく、チラチラこちらを確認しながら鳴く。

威嚇だろうか・・・もしかすると、求愛行動か?

前方の枝でしこたま鳴いたあと、頭上の電線からコチラを見ながら鳴き続けるた。

ちなみにクモの糸は、たぶんオオジョロウグモを食べたから。

 

見てのとおり、クチバシと頭がデカいので、狩りには有利だが渡りには不利な形態。

この春は天候不順で強風の向きがコロコロ変わっていたため、渡り鳥が少なかった。

オスは強い遺伝子を残すため、勢いアグレッシブを目指すが、メスはそうでもないから、

島への渡りをあきらめて、大陸側で繁殖しているのではなかろうか。

 

我が家の周囲でも、未だに朝の巡回にやってきて、ヘキャルルルル〜とかすれ声で

切なげに鳴く。 体験的には・・・パートナーを求める声のような気がする。

 

つまり、アカショウビンはペアで渡ってくるのではなく、現地で探すスタイルのようだ。

いや、すべてがそうでないにしろ、ある程度は現地で探のだろう。

ただ、複数羽で渡来したところは見たことがないから、前者の傾向が強そうだ。

当然、派手だから海上の渡りは夜で、陸伝いならば昼でも移動していく。

 

鳴き交わしてみると、様々な情報が見えてくるものだ。

研究者は、正確さを求められるがゆえ、荒っぽい鳴きマネなどは不可能だが、

私は別に研究で飯を食らう必要が無いから、自由がきく。

正確ではないが、目算は立てられるから、感覚的かつ勝手に探求することができる。

 

せっかく練習を重ねてきた鳴きマネ術。

上はイマイチだが下が伸び、2オクターブちょい超えどまりだが、カッコウも吹ける。

次は高音を伸ばせば・・・シジュウカラやヤマガラに近づけるだろう。

 

そうえいば、アカショウビンの声質は、かすれ具合が歯笛の方がソックリである。

歯笛で大きな音が出せれば・・・もっと確実にアカショウビンに近づけそうなものの、

音量をかせげるのかどうか、今後の宿題になった。

 


 

今週末のダーウィンが来た、はミノカサゴ。 島にはハナミノカサゴがいる。

あれは派手だから毒魚だと知らせる警告だ・・・と伝説化しているが、どうだろう。

地味な研究者は生活や容姿も地味で、派手に対するコンプレックスがありゃせんか?(笑)

サンゴ礁では別にフツーの派手さであり、むしろ自然である。

しかも警告体形?のお陰ですばやく泳げないから、エサにありつけやしない。

私はビーチで岩にへばりついている姿を見かけたことがあり、ハッとした。

まるでソフトコーラルか海藻のよう。 そうした枝?の間は稚魚の避難場所になる。

目をカモフラージュするように、体に細かな横縞が入っているのも合点がいく。

果たして本当に警告なのか・・・ナゾは解けるのだろうか???

 


ではまた