現代科学と、目の筋肉

 


 

巷の珍奇

 

九州の地震、豪雨災害で被災された方々、その関係者の方々にはお見舞い申し上げたい。

ただ、残念ながら、遠くから申し上げるだけではナニもないから、あんまりその気は無い。

年収100万で、募金する余力も無い。 口先だけで見舞うのは、大変失礼であろう。

 

自分への心配は、とっさの判断材料ともなるが、ただ何もしないで他人を心配するのは

無意味であり、糖分の無駄遣いである。

心配は耳ざわりがいいものの、結局は単なる自分の不安材料に他ならない。

 

あれほど断層だ、地震だ技術だと鼻息の荒かった科学陣だが、サッパリじゃないか。

科学信仰する国民ばかりだが、科学はまだまだヨチヨチ歩きで、それに享楽するには遠い。

災害からは、逃げるのが極大解であることは間違いない。

しがらみに縛られて危険地に居残るのは、社会性動物の頂点ゆえの弱点でもあり、

摂理でもあるのだろうと思う。

 

和歌山のそこそこ高級な梅漬けをもらった。

Oちゃんは、食べないから・・・とのことだが、タダ単にキライなだけのようだ。(笑)

子供のころから、さして食べ物の幅が広がっていないらしい。

ピーマンもニンジンも、あまつさえゴーヤなどは、とても食べられないのかもしれない。

ところで、その梅漬け。 カツオ風味というのだが・・・もう梅漬けじゃなく別物だった。

オカカ梅はその場で和えるから双方が活きるが、漬かってしまっては共倒れで臭い。

その上、薄味というよりも甘い。 ご飯と組み合わせると、吐く一歩手前で当惑した。

焼酎のお湯割り専用のような不健康極まりない味付けだ。 それともお茶請けか?

食品製造業者は、どうも加工工程数やら化学調味の量を増やすことで、

努力したと勘違いしながら、自慰的に生産している嫌いがある。

美味しければ問題ないのだが・・・衝撃的に不味い方向になっている気がする。

「かごんまのうめぼい」のように、原料が梅とシソと塩としか書いてない梅干がいいなぁ。

 

ところで、幾度となく記してきたが、健康食伝説として語られる和食の代表とは何だろう。

味噌汁? 魚の煮付け? カツ丼? 親子丼? 玉子焼きにおひたし? 湯豆腐?

このごろのポン人は、それらをどれほど口にする機会があるのだろう・・・

 


 

努力してもどうにもならぬ事柄は多い。

だが、努力をしたことも無いのに、諦めている事柄の方がもっと多い。

 

私は、目標を掲げて頑張るような、大胆で格好の好い努力はできないし、三日坊主だ。

だから、無計画で小さな行為を時々積み重ねることで、年月を努力量にすることを好む。

今回は、小さくて無駄な努力を続けてきた自慢である。

歳寄りは実力も体力も失い、残るは目下へ自慢することが唯一最後の生きがいだ。(笑)

 

たとえば料理。

めちゃくちゃキツかった松下での生活でも、夜中に帰宅してもなお自炊していた。

精神的にのんびりしないと明日までにチャージできないから、晩酌は自宅で・・・だったのだ。

デザイナーは、心で仕事をする比重が高いし、私は今も無駄に細くて弱い精神である。

もちろん、店屋物は味が濃いし、油っぽいし味が退屈だ・・・というのもある。

 

そんなことより、どうだろう・・・自炊し始めて31年を経ようとしている。

 

イタリアへ社費で赴いたり、豊富だった給料でキャビアをごはんにトッピングしたり、

諫早の友人の実家ではじめてニガウリ体験、出張先でワニ料理を食べたりして、

食の幅がずいぶん広くなったし、好みも変化した。 というか・・・変化させてみた。

弟が落ちて、手だけが出ていた恐怖のコエダメと同じ臭気の、クサヤも克服し今や好物だ。

 

私が食について諦めなくなったのは、不味くてたまらぬ最初の料理、パルキーポトフのせいだ。

 

今でも覚えている。

アオキスーパーで求めた安物のウインナー、パルキーとバレイショ、ニンジン、タマネギを煮て

コンソメと塩、コショウで味付けした・・・いきなりアイデア?ポトフだったが、吐きそうだった。

 

芸大生が多い下宿だからか、作ることに慣れているようで、みな当たり前に自炊していた。

田園風景の広がる長久手、近所に食べられるところが限られていた・・・というのもあるだろう。

モスバーガーの店も出来たてだったし、当時のバーガーセットは学食の味噌カツより高かった。

 

毎日、0.5ミリだけ高く飛んでみるチャンレジをしたとすると、10年で1m80cmあまりになる。

 

目は、ニンゲンがもっとも重要と感じている器官のひとつ。

正月に老眼鏡をこさえたとき、町の眼鏡屋から、アナタは近視で乱視ですと診断された。

無論、眼鏡屋は医者ではないが、医者も眼鏡屋も、経験が同じなら洞察力も同じだ。

 

現代科学の最大の弱点と矛盾、それが統計に基づく平準化志向である。

統計に沿っていれば正常、そうでなければ異常。

だが生物は時折、意図してとっぴな個性を生み出す因子を有していて、

ニンゲンはそれを突然変異などと呼ぶが、生物の摂理を超えようとする必然機能だ。

進化は、あてずっぽにとっぴな個性で、それが時宜に適えば進化に変貌していく。

 

だが、正しいとっぴを先見しうる人類は、今のところ居そうに無い。

 

私が豆腐食の話をすると、食に対して無努力のニンゲンほど「かえって」健康に悪いくない?

と無思慮丸出しの稚拙回答が返ってくる。(笑)

かえって・・・ということは、自分の無思慮無努力が正しいと、自分に言い聞かせているらしい。

たいがいとっぴなことに対し、ニンゲンは笑い飛ばしたり、反論して自分を上位にしたがり、

自慰に走る傾向が目立つ。

社会的に問題が無ければ、非難される理由など無いし、無思慮無努力にも意味が無い。

 

そもそも私の視力は、老眼にこそなっているが、近視にはなりようがない。

確かに30年あまり昔、弟のパソコン、富士通NEW FM7で遊んでいたが、弟は近視になった。

ただ、以後も私の視力は時折低下して1.2程度まで低下したが、その後測定限界以上に回復。

乱視が強まった現在でも、双眼鏡なしに野鳥を見つけては撮影に勤しんでいる。

これのどこが近視というのか、まったく理解に苦しむ。

近視は、遠くが見えないから近視・・・という常識の一種ではないか?

 

遠視も近視も関係ないのは、私の視神経はオートフォーカス=自律神経と切り離せるし、

水晶体を動かす筋力として、フツーに動かす感覚があるからだ。

昔からよく、小さな面白芸でやる、鼻をひくひくさせたり、耳を動かしたりできるアレの延長だ。

たまたまできるニンゲンが居ないから想像できないだけのことだが、私にはフツーの感覚だ。

そのような非日常でなくとも、無意識の呼吸から、深呼吸できたりする感覚である。

  

以前から述べているが、幼少のころドカベンで視た五円玉の向こうを見るというのを、

実にじっくりと取り組んだ結果、動体視力はまったく無理であると思ったが、なぜか別の

なぜ穴の向こうを見ようとすると五円玉にピントが勝手に遷りヤキモキするのか・・・という

違和感そのものが強烈だった。

そもそも、揺れ始めると、五円玉の穴の向こうでなく五円玉を見ている自分が嫌になった。

だから、五円玉でなく遠方だけを見続けたいと願って・・・叶えた身体能力?である。

もちろん、子供なので大した事などやっておらず、五円玉とその背景を見続けながら、

ピントをズラして遊んでいただら・・・いつのまにか感覚が備わった。

これをマスターすれば、誰しも近視とオサラバできるというか、もともとならない。

ただし、乱視には効果が無いみたいだ。

 

筋力をドアップしているニンゲンがいるのだから、眼力維持くらい出来ても不思議は無い。

どちらも筋力コントロールという点では全く同じ原理。

ただ、目を食いしばれるのはケロン人ばかりと信じる、ペコポン人が多いだけだ。(笑)

 

感覚神経は、用いなければ減退し、用いるほど発達する。

 

ちなみに

鼻ヒクヒクは小学のころマスターしたし、片目を自在につむるのも楽勝だった。

しかしながら、耳ぴくぴくをマスターしたのは高校になってからだ。(笑)

 

結局、格闘技は苦手のまま終わったが、体の感覚/制御は思ったよりも、

ずっと自由度が高いし、応用できることを学んだことは嬉しい誤算だった。

 

格闘技は、イメージした動きを体が臨機応変かつ正確にトレースできるよう訓練するが、

そのことが格闘とは別に、様々な身体機能に応用できることを感じたからだ。

 

腹の中はイメージできないので仕方ないとして、目に見える部分はある程度訓練できる。

意外に、足の指を一本一本動かすとか・・・私にも出来ない。 無理すると・・・つる。

 

あるとき、握力に限界を感じた。

一方で、ハンドグリップを買い換えずに、いかなる状況でもフルパワーが出せないかと考えた。

刑事物で手首をきめられたチンピラが、ナイフをポロリ・・・とするシーンがあるがアレの克服。

フルパワーが出せる手首の角度は意外に狭い。

手首を内側に、ネコパンチ型にしたとき、チカラが全く入らないどころか、

拳を握るのも痛いと感じるかもしれないが、そこが弱点なのである。

その状態で、ハンドグリップを握る訓練をしてみた。

こんなに重くて痛いのか・・・と驚愕したのを覚えている。

けれども、キリキリとイイ感じのする苦痛でもあったから、鍛錬は続けられた。(笑)

 

日常的には、さほど役立っていないような気もするが・・・ビーム砲レンズを持ち歩くときや、

買い物かごをさげているときに、無理な姿勢になって落としそうになる心配が無くなった。

 

ちなみに

買い物かごは、常にひじ90度以上曲げた状態で手に持って歩き、上腕二頭筋を刺激している。

一見・・・奥さまが買い物かごをひじにかけているっぽく見える?

昔は努力していたが・・・・今はもう無意識になった。 毎日のお買い物筋力維持術。(笑)

手を伸ばしてさげれば楽だが、お客と素早くすれ違うことができず、物色速度が落ちてしまう。

 

柔軟性も、昔ほどではないがまだ十分領域にある。

股割りできなかった関係で、開脚は135度どまりながら、その間にぺたっと前屈できる。

つまり、今もまだ前屈には制限が無い。

昔、床屋さんダンディで習った、背中側で合掌する・・・というのはなかなか肩の柔軟性に効く。

修験者が、滝行しているときのあの祈りの合掌を、そのまま背中側でやるわけだ。

これが・・・意外にできないものである。

 

とまあ

くだらない小さなことも、忘れず時々・・・何年も続けると、だいぶ体が変わった気がする。

右手が腱鞘炎になったから、箸もデザインも左でこなすし、釣りもここ6年は左投げ右巻きだ。

 

小さな生活になったから、チャレンジももっと小さめになりつつある。

 

出始めのゴーヤ白和えに、リンゴを加えてみたり。

だってサラダにも入れるじゃん。(笑) 砂糖を減らして、フルーツ白和え。

食通風には、干し柿などを加えるのだろうが・・・

つぎは、冷凍庫に眠るマンゴーにしてみよう。

マンゴーは黄桃を薄めたような風味なのに、よくまあ人気があるもんだ。

 

チャレンジというよりは、こちらは機能回復。

インド風らしいが、むしろ肉入りだからパキスタン風?

レトルトの英海軍式カレーで、脂肪補給訓練も実施する。(涙)

油物を食べない習慣になってから、めっきり油が胃にもたれるようになっていて、

少しでもその進行を食い止めたい・・・文字通り、食って止めたい・・・

 

そうそう、新技?も開発中だ。

ズアカアオバオの女子を口説いてみた。(笑)

警戒心の強いアオバトが、向こうからやってくるのは珍しいことだ。

これまでポ〜アオ〜オ〜ア〜♪と、マイルド尺八のようなオスの声しか知らなかったが、

どうやら恋のささやきは、小声でポ〜ポポポポポポのようだ。

通常の口笛よりも、かなり低い音だから、コノハズクのコホッと同レベルの低音。

内地の鳥で表現するならば、アオバズクのホーホーレベル・・・といっても通じまいか?(笑)

ともあれ、ハトを寄せられるとは思いもしなかった。

 

すると・・・

目つきのわるいオスが割り込んできた。

人妻か・・・しかしあるいは早計で、実はハト類のペアはオスのストーキングの可能性大だ。

脈アリ・・・としておこう。(笑)

 

真似できても、実用でない鳴きマネは多いが、今のところ

リュウキュウコノハズク、アカショウビン、サンコウチョウ、キアシシギ、セッカ、アオジ、ウグイス、

片言だが、リュウキュウキビタキ語?も話せるぞ。(笑)

話せる?ことで、いかな優れた動物写真家でも、全く撮られぬような写真が手に入る。

先のアオバト女子の写真などがソレ。

コソコソ隠れてアオバトを間近で撮影することは可能だが、警戒心の払拭どころか、

こちらに好奇心を向けている画は、逆立ちしても撮影しようが無いのが常識だからだ。

私にとって、コノハズクのこうしたシーンはわりとフツーだが、おそらく著名なプロでも困難だろう。

撮影技術の問題でなく、単純にコトバの壁だから。(笑)

 

口笛も、体の使い方だから、筋トレと似たようなものだ。 オンチはダメだが。

 

これからは、まだ撮影に届かないリュウキュウキビタキのチャレンジシーズンだ。

寄っては来るものの20m前後の距離を置かれてしまっている。 しかもジャングルの中で。

なかなか寄せがいのあるターゲットで、留鳥だが生息数が少なく、ぜひ撮っておきたい。

  

ジャングルで待ち伏せしていると、後ろからイノシシに、ンゴッと声かけされることもある。(笑)

とりあえず、明るいところには、ハブは滅多に出てこない。

だがそこは、携帯電波の不感地帯だから用心は必要だ。

 

南国に逃げてきたわけだが、ここでしか進歩できない事柄もある。

身体能力を磨くことはほとんどタダだから、やっておくに越したことは無い・・・と思うのだが。

 


ではまた