会社帰り、めずらしく黄昏に間に合った・・・


会社を出たら、まだ明るかった。

久しぶりに通れるようになった道を選んで、団地を抜けて帰る。

子供の頃は、団地=都会→憧れだったように思い出す。

高度成長期に造られた日吉団地は、黄昏に良く似合う気がし

遠くには壊れてパープーのパーしかでない豆腐屋の音

電線には、ずいぶん前に引っかかった凧のほね

犬を散歩させている主婦、まだ子供たちの声が残る保育園。

子供の頃描いていたのとは、全く違う、当時そのままの21世紀が

そこにある。

 

こんなに早いので、スーパーに寄った。 

美味しいものでも作ろうと心密かに踊るころである。

ところが、買ったものといえば、お弁当であった。

 

これにはレッキとしたワケと義務があったのだ。

僕は毎月20日の週の土日に床屋へ行くのが恒例である。

その床やの奥さんによれば

「OKスーパー通なら、あのカツ重と天重を食べずして

 あの新装開店したOKを語ることはできないのではないか」

といった向きの忠告をしてくれたからである。

 

改装によってお惣菜が強化され、鮮魚、衣料も充実しているのだが

ことのほか

入店時に注文しておいて、帰りに焼きたてが買える格安ピザと

出来合い感を払拭した弁当類は定評があるのだ。

 

とはいっても、さすがに家には電子レンジもないから

再び温める事もできず、五月の声を聞き、コイノボリも泳ぐ時節にしては

ずいぶん寒々としたものが心を吹きぬけていくのは否めない。

「今日は早く帰れるから、保育園に迎えに行くよ」なんて

カミサンに電話してから、子供と手をつないで

リビングダイニングキッチン付きの

世界一あったかい家庭へと向かうはずであった

小さい頃の夢とは程遠いにもホドがある状況である。

 

家について、よく確認すると、ズッシリと重い。

人気があるので、週末は昼過ぎにはなくなってしまうが

週の真ん中なら、夕刻の100円引きともなるラッキーな逸品のようだ。

見れば「手造り長寿豚使用」とある。

てづくり、のつくるが「造る」であるには、壮大な製造過程が必要である。

それが正しい日本語である。

ということは、少なくとも、このお弁当如きが

見てのとおり、かくも壮大な手づくりですとは言えまい。

となれば、長寿豚を長寿を全うさせることが造ることなのか?

しかし、どうみても長寿豚に手造りとは珍妙である。

となれば、手造りを使用した、と言うことだろうか。どう言う意味だ?

いや、違う。これは単純に手造りの言葉遣いが自己中心的で

自己顕示欲のもとに利用されたようであった。

 

その透明な蓋をおもむろに開け、ツユのしみたトンカツに箸をかけた瞬間

その「造る」という意味がわかった気がした。

最近の手ヅクリはあくまで手作り風か、あえて手作りしかできないものに冠される。

だが、このカツは3センチに届こうかという、ご飯の厚さと同等の

お弁当にしては極めてウルティメイトな

究極と言っても良いスーパー惣菜コーナーというジャンル至高の弁当であった。

もちろん、衣が分厚くてではなく、中心がほのピンクの重厚なカツだ。

しかも、ロースではなく、モモあたりのやや油の少ない部分を

じっくりと、けれどもギリギリ火を通しつつ、柔らかく仕上げてある。

なるほど、これを食べずして、語れない・・・

この、お買い得感、満腹感をもって、主婦究極の悦楽にひたる瞬間が

床屋の奥さんに忘れられない体験として、語らせたに違いなかった。

 

2週間前に食べた天重は、確かに噂通り巨大なエビ「2本」が、薄衣を従えて

堂々と横たわる、これまたウルティメイトな逸品であったことは記憶に新しい。

重鎮として、意外にもサツマイモの天ぷらが添えられており

奇しくもその甘味が箸休め、口なおし的役割を半ば担っているという

心憎い「造り」であったのだ。

 

ああ、これが、21世紀の主婦の至福か・・・

と、劇的に妙なスーパーマーケットマニア的悦楽にひたる自分に

気付かない様に気付かない様に意識を逸らせつつ

ふと見れば、部屋には平成のハイテクと昭和40年代のローテクが

ごろごろしている。

 

今、意外に性能の良いハイテク製品と

昔から変わらない電化製品には大きな違いがある。

それは、充電池であった。

 

手軽にスーパーで格安アルカリ電池が手に入るご時世であるが

コードレス掃除機、髭剃り、コードレステレホンなどはニッケル系の

途中充電が悪影響するタイプだ。

パソコンや、携帯電話はリチウムイオン系のものだから

途中充電はさほど問題ではない。

我が家では、その昔、松下伝統の新入社員教育である

ナショナルショップでの実習の時にエアコン取り付けで出会った逸品がある。

依頼主が放棄した、初期のオンオフタイマーだった。

コンセントに挿すとタイマーが小さなゴリゴリ音とともに進み始め

ピンを挿しておけば、その時間で電源が入り切りできる

原始的にして確実、ローテクにして究極の家電支援機器であった。

赤ピンがオン、白ピンがオフというわかりやすさ。

これを、途中充電しないで、辛抱強く使った機器に使用すれば

会社に行っている間や、寝ている間に過充電なく、フル充電されるのだ。

これが、長男として電器を知るものの究極の技でもあると自負している。

 

じゃあ、なぜ皆便利なリチウムイオンにならないのか???

話しが反れついでに、それとなく説明しよう。

それは、単に安いから・・・と思ったら中間違いである。

パソコンでニッケル水素充電池なら、そりゃ安物だが

モーターを使った製品はそうじゃない。

例えば、ラジコンは昔から現実のF1よりハルカに進んだ思想で存在する。

それは、実在の大きさに治すと時速400キロからマッハ(1000キロ)に匹敵する

超高速で疾走するのだから当たり前であるといえばそれまでだ。

そのパワーを生み出すのがニッケルカドミウムやニッケル水素充電池で

電気的な内部抵抗というのが問題なのである。

この充電池は内部抵抗が小さいので、イッキに大容量を放電できる。

つまり、馬鹿食いの動力などにつなげば短時間に使いきれる電池なのだ。

しかし、リチウムイオンは内部抵抗が大きく馬鹿食いには満足できない

電流しか放電できない。

例えば、コードレス掃除機を回そうとすれば

出力が上がらないままにジュウタンの上を何回も往復させて

「掃除をしたい」という心の衝動を往復回数で満たさねばならなくなる。

対して、ニッケル系なら、ものすごい轟音と共に

モーターをプラスチック外装を溶かす勢いで発熱させながら

強引にゴミを吸い込むという荒業をこなし

お掃除衝動に対して、一定の納得が行く答えを見せてくれるのだ。

 

つまり、単三電池型などのものなら、専用充電器でまかなえるものの

様々な充電アイテムには、現在のところ、このエアコンタイマーが

最初で最後の自動充電サポーターであるわけだ。

 

あの、夢多き昭和40年代のアイテムが、未だに最高とは

やっぱり黄昏がまぶしすぎる。

 

ともあれ

こういった生活を送ろうと志していたわけではなく

先週末は、本来なら陸からマダイをルアーで狙うという

最新にして困難なタスクをこなす予定であった。

けれども関東は天気晴朗なれど並高すぎ状態であり

とても大島でマダイ・・・などという甘い誘惑には至れない状況だった。

しかし、名古屋の釣友、H氏によれば

こともあろうにスズキ狙いの船でマダイを狙い

40、50センチ台という、まことに食べごろの獲物をゲットした模様。

あまつさえ、今夜からマダイ三昧・・・(新婚の奥さんと)二人で食べるには

十分過ぎる・・・などといった、うらやましいにもほどがあるコメントを

釣り談話室の電子会議室に載せるなど、まことにバチアタリな行為を

許してしまった。

しかし、来週は大潮で、大島では釣り始める頃には下げ潮である。

つまり引き潮なのだ。

これでは、釣れない可能性大である。

打倒H!とは問屋が卸さない状況であった。

 

うーむ、力んでも仕方なしか・・・

まあ、ゆったり構えて、南大東9泊10日旅行の準備でもするとしよう。

それに、散髪のころあいでもあるので、床屋の奥さんに

弁当レポートを伝えなければなるまい。

人生、焦っても、ころんでも、うらやんでも自分は自分である。

もし、も、あのとき・・・もない。

今日は弁当がうまかった。床屋の奥さんは正解であった。

明日はまた、何か人生の発見があるといいな・・・。

きっとあるとも。


ではまた