こんな時こそ生きる価値

 

僕の育った高度成長期は一気に工業技術が芽生え

多くの電気製品や車、団地など

量産に継ぐ量産で一様に物が家庭に行き渡った時代。

資源の枯渇や空気、水質のことなど考えず

無茶をやりながらも、一方では物質的な欲望を

一心にクリアしてきた時代。

 

物はゆくゆく増えて行き、

知らぬ間に増えるように身の回りを満たしてきた。

 

でもお陰で失ったのは心の行き場

 

両親が働きに行き、

一生懸命塾にも行かせてくれたこの人生

 

大学を出て会社へ入り

失業が広がるこの世の中で、

空気は悪くなり、暑くなり、仕事はきつくなる

 

でも、

おやじの様には成りたくない。

働くだけで終わりたくない、なんて考えた事もあった

 

一体何のために生きているのか分からない......

 

親より早く死ぬわけには行かない、

それだけで生きてきた、ぬるま湯人生。

 

そんな時、ヒラスズキ釣りに出逢った。

 

波浪にその魚は居る

3メートルの大波の中、魚を追って

磯を右往左往、波から逃げ、波に挑む

 

そんな時だけは感じる。

 

大波にのまれそうな時

    両親の言葉、顔、走馬灯.......

生きるんだ!生きなくては帰れないんだ........

 

悲しいかな、こんな時しか生きようと思えない。

海に泳ぐ時、このまま沈んでしまったら

      ひょっとしたら幸せかも..........

などと思う事もしばしば。

 

でも「死」そのものが楽しいわけはない

 

例えば

目の前で自分の命を絶とうとする

中学生が居たとして

それを止める

それをやめさせる言葉を

持っているだろうか?

生きるんだと、力強く励ませる理由が

どこかに存在するのだろうか???

 

季節がらサクランボが美味しいけれど

それを好きな人の手からもらって食べる事が

そんな些細な事こそが幸せ

 なんて、解ってもらえない......

 

幸せが言えなくて

不幸せは感じる

 

もともと

生き物が生きる道は

 日々戦いである。

 

地球という

たまたま恵まれた星に生を受け

本来なら不毛の地が攻め尽くして

はかない存在は無に帰する運命の宇宙に生まれた「生」

 

お互いを食べ、恐れ、眠り、そして戦った日々

それが遠い過去となった今

.

.

.

 

我々に残ったのは道理であり皮肉な「死」の自由と幸せ

 

やはり、闇に塵に戻るのが幸せ

 

では、

それを押して尚、生まれてきた反不毛的存在の

「生」とは何???

 「神」のいたずら??

 

「意味」はそれぞれの存在にとって異なり

意味を感じようとするもの以外

受け入れても堪えられない世界

 

反射的に生きようとする私

自分の一瞬の幸せだけに生きようとする存在と

次の世代の幸せを願って

自分を無にして働く親と

どちらが幸せだろうか?

どちらも幸せでないのでは???

 

最近、中高年の自殺が増えているという

とめだてする理由が思い浮かばない

そんな人間になってしまった

 

人に生きる意味は元々存在したかどうかは理解不能

生きてはじめて存在を感じたのだ

 

生きてその重さを感じ

その無意味さと一片の楽しさを味わい

やがて無に帰る

 

生も死も一度の経験

早くも遅くも自由

 

あなたが生きる事で

誰かがあなたを踏み台にしたり

あなたを好きになったりして

誰かが生きる糧を得るかもしれない

 

あなたが誰かを生かしているかもしれない

ぼくもそうだ

それでもこれを読むあなたは生きている

それは幸せと感じるには何かと遠いイメージで

何気なく、これからも目の前だけを見つめて

とりあえず死ねずに生きていくだろう。

 

でも、

少しでも幸せな瞬間がまたやってくる

 

でも、

また苦しい刻が巡ってくる

 

いつ

生きるべきか、死ぬべきか

  それが問題だ....